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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第二話 記録は忘れない

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16/18

2-8

 夜、事務所に戻ると、コマリから信号が届いていた。正確には、第七複合ビルの古い非常灯コードだった。


 赤、緑、緑。


 また来てください。


 あの夜の最後に見たのと同じ信号だ。


 俺は端末を眺め、灰桜(はいざくら)をくわえた。吸わずに、少し考える。古椿(ふるつばき)の言葉が頭に残っていた。


 お前さんも昔、一度死んだことになっておる。記録上の話じゃ。


 俺は自分の名前で、都市行政網に照会をかけた。


 久我(くが)ミナト。ヒューマン。二十七歳。住民登録あり。職業、個人事業主。医療保険、滞納一ヶ月。交通権限、有効。信用スコア、低。犯罪歴、なし。


 どこにも、傷がない。滞納も、低いスコアも、むしろ自然だ。俺のような生き方をしていれば、当然そうなる。きれいすぎるわけではない。だが、古椿(ふるつばき)が言ったような「妙な空白」も、表からは見えない。見えないように、整えられている。整えた者がいる、ということだ。


 表向きは、何もおかしくない。おかしくないものほど、疑うべきだ。


 だが、その夜はそれ以上調べなかった。調べれば何かが出る。そういう予感があった。そして、予感が当たる仕事ほど、ろくでもない。


 それに、沼田(ぬまた)ゲンの死亡記録を戻したばかりだ。他人の死をひとつ取り消した夜に、自分の死を掘り起こす気には、なれなかった。順番というものがある――古椿(ふるつばき)の言葉を、俺は都合よく借りることにした。


 ソファでは、サエが勝手に横になっていた。


「そこ、俺の寝床なんだが」


「追加料金の代わり」


「どういう計算だ」


「私が休むと、次の仕事であなたが死ににくい」


「合理的だな」


「でしょ」


 サエは目を閉じたまま言った。疲れているのだろう。


 サエは、俺の寝床のソファで、丸くならずに、仰向けのまま眠ろうとしていた。出入り口の方へ、片耳だけ向けている。狭い場所で背を丸めると、昔の何かを思い出すのかもしれない。


 今日、彼女は自分で切ったはずの記録を、少しだけ表に出した。表に出せば、誰かが見る。誰かが見れば、そこから繋がる。彼女はそれを知っていて、使った。河童(かっぱ)技師を、死人のままにしないために。


「サエ」


「何」


「今日は助かった」


「請求する」


「知ってる」


「あと」


 彼女は目を閉じたまま、少しだけ顔を背けた。


「見たこと、忘れて」


「努力する」


「努力じゃなくて、忘れて」


「忘れるのは苦手だ」


古椿(ふるつばき)みたいなこと言わないで」


「じゃあ、話さない」


 俺は、忘れる、とは言わなかった。覚えたまま、口にしない。それが、俺にできる、いちばんましな嘘だった。


 サエは黙った。少しして、彼女は小さく言った。


「それでいい」


 俺は灰桜(はいざくら)に火を入れた。青白い霧が、事務所の古い天井へ昇る。


 吸うと、いつもの言葉が喉の奥から戻ってくる。回収対象。停止許可。処理済み。今夜は、そこにもう一つ増えた。一度死んだことになっておる。古椿(ふるつばき)の穏やかな声が、待機室の記憶と、同じ引き出しに入ってしまった。


 この街では、記録に残るものだけが存在する。だが、記録は誰かが作る。誰かが削る。誰かが隠す。誰かが守る。


 古椿(ふるつばき)は忘れない。コマリは家を出ない。サエは自分の記録を切る。そして俺は、どうやら一度死んだことになっている。


 ろくでもない話だ。けれど、帳外屋(ちょうがいや)の仕事はだいたい、ろくでもない話から始まる。


 端末が鳴った。差出人不明。件名なし。本文は一行だけ。


 ――死んだままの方が幸せな記録もある。


 俺は、その一行を、しばらく見ていた。


 脅しではなかった。忠告の顔もしていない。ただ、事実を置いていくような一行だった。沼田(ぬまた)ゲンの死亡記録を戻したことへの返礼が、これだ。死んだままの方が幸せな記録もある――誰の記録のことを言っているのか。沼田(ぬまた)か。それとも。


 右手の指が、また細かく震えた。俺は灰桜(はいざくら)のケースの角を、指で確かめた。


 俺は画面を見たまま、煙を吐いた。


 ソファの上で、サエが片目を開ける。


「次の仕事?」


「たぶんな」


「報酬は」


「不明」


「最悪」


「いつものことだ」


 外では、雨が降り始めていた。湾岸(わんがん)区の夜景が、窓ガラスの向こうで滲んでいる。


 俺は灰桜(はいざくら)を指で挟み、まだ知らない自分の死亡記録を思った。


 記録は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも記録する側だ。


 なら、俺を一度殺したのは誰なのか。


 その答えは、きっとどこかの古いサーバに残っている。そしてたぶん、古椿(ふるつばき)はそれを覚えている。

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