2-8
夜、事務所に戻ると、コマリから信号が届いていた。正確には、第七複合ビルの古い非常灯コードだった。
赤、緑、緑。
また来てください。
あの夜の最後に見たのと同じ信号だ。
俺は端末を眺め、灰桜をくわえた。吸わずに、少し考える。古椿の言葉が頭に残っていた。
お前さんも昔、一度死んだことになっておる。記録上の話じゃ。
俺は自分の名前で、都市行政網に照会をかけた。
久我ミナト。ヒューマン。二十七歳。住民登録あり。職業、個人事業主。医療保険、滞納一ヶ月。交通権限、有効。信用スコア、低。犯罪歴、なし。
どこにも、傷がない。滞納も、低いスコアも、むしろ自然だ。俺のような生き方をしていれば、当然そうなる。きれいすぎるわけではない。だが、古椿が言ったような「妙な空白」も、表からは見えない。見えないように、整えられている。整えた者がいる、ということだ。
表向きは、何もおかしくない。おかしくないものほど、疑うべきだ。
だが、その夜はそれ以上調べなかった。調べれば何かが出る。そういう予感があった。そして、予感が当たる仕事ほど、ろくでもない。
それに、沼田ゲンの死亡記録を戻したばかりだ。他人の死をひとつ取り消した夜に、自分の死を掘り起こす気には、なれなかった。順番というものがある――古椿の言葉を、俺は都合よく借りることにした。
ソファでは、サエが勝手に横になっていた。
「そこ、俺の寝床なんだが」
「追加料金の代わり」
「どういう計算だ」
「私が休むと、次の仕事であなたが死ににくい」
「合理的だな」
「でしょ」
サエは目を閉じたまま言った。疲れているのだろう。
サエは、俺の寝床のソファで、丸くならずに、仰向けのまま眠ろうとしていた。出入り口の方へ、片耳だけ向けている。狭い場所で背を丸めると、昔の何かを思い出すのかもしれない。
今日、彼女は自分で切ったはずの記録を、少しだけ表に出した。表に出せば、誰かが見る。誰かが見れば、そこから繋がる。彼女はそれを知っていて、使った。河童技師を、死人のままにしないために。
「サエ」
「何」
「今日は助かった」
「請求する」
「知ってる」
「あと」
彼女は目を閉じたまま、少しだけ顔を背けた。
「見たこと、忘れて」
「努力する」
「努力じゃなくて、忘れて」
「忘れるのは苦手だ」
「古椿みたいなこと言わないで」
「じゃあ、話さない」
俺は、忘れる、とは言わなかった。覚えたまま、口にしない。それが、俺にできる、いちばんましな嘘だった。
サエは黙った。少しして、彼女は小さく言った。
「それでいい」
俺は灰桜に火を入れた。青白い霧が、事務所の古い天井へ昇る。
吸うと、いつもの言葉が喉の奥から戻ってくる。回収対象。停止許可。処理済み。今夜は、そこにもう一つ増えた。一度死んだことになっておる。古椿の穏やかな声が、待機室の記憶と、同じ引き出しに入ってしまった。
この街では、記録に残るものだけが存在する。だが、記録は誰かが作る。誰かが削る。誰かが隠す。誰かが守る。
古椿は忘れない。コマリは家を出ない。サエは自分の記録を切る。そして俺は、どうやら一度死んだことになっている。
ろくでもない話だ。けれど、帳外屋の仕事はだいたい、ろくでもない話から始まる。
端末が鳴った。差出人不明。件名なし。本文は一行だけ。
――死んだままの方が幸せな記録もある。
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
脅しではなかった。忠告の顔もしていない。ただ、事実を置いていくような一行だった。沼田ゲンの死亡記録を戻したことへの返礼が、これだ。死んだままの方が幸せな記録もある――誰の記録のことを言っているのか。沼田か。それとも。
右手の指が、また細かく震えた。俺は灰桜のケースの角を、指で確かめた。
俺は画面を見たまま、煙を吐いた。
ソファの上で、サエが片目を開ける。
「次の仕事?」
「たぶんな」
「報酬は」
「不明」
「最悪」
「いつものことだ」
外では、雨が降り始めていた。湾岸区の夜景が、窓ガラスの向こうで滲んでいる。
俺は灰桜を指で挟み、まだ知らない自分の死亡記録を思った。
記録は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも記録する側だ。
なら、俺を一度殺したのは誰なのか。
その答えは、きっとどこかの古いサーバに残っている。そしてたぶん、古椿はそれを覚えている。




