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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第二話 記録は忘れない

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2-7

 鳥居(とりい)診療所から連絡が入ったのは、帰り道だった。


 沼田(ぬまた)ゲンの死亡記録は取り消された。医療保険は仮復旧、怪異(かいい)市民番号も一時復帰。ただし銀行IDはまだ凍結中で、勤務先の下水インフラ会社は彼の雇用記録を確認中だという。生き返ったにしては、ずいぶん事務的だった。


 だが、診療所の女医は少しだけ安堵した顔をしていた。


『ありがとうございます。彼は、少なくとも患者に戻りました』


「人間に戻ったわけではないんですね」


『この街では、それは別の手続きです』


「面倒な街だ」


『でも、生きています』


 女医は、少しだけ間を置いてから、続けた。


『ひとつだけ。彼が目を覚ましたら、伝えてほしいことがあります』


「何を」


『あなたは、ちゃんと在った、と。勤務履歴の一部は戻りませんでした。証言の重みも、前と同じにはならないでしょう。でも、あなたが水路で子どもたちに釣りを教えたことは、記録の底から見つかりました。だから、あなたは、いなかったことにはならなかった、と』


 俺は返事に詰まった。医者の言葉ではなかった。だが、この街の非営利診療所の女医は、たぶん、薬より先にそれを渡さなければならない相手を、何人も見てきたのだろう。


「伝えます」


 通話はそこで終わった。


 旧庁舎を出ると、夕方だった。空は鈍い鉛色。湾岸(わんがん)区の高層ビル群は、遠くで冷たい光を放っている。旧市街の路地では、狐の子どもが違法広告ドローンを追いかけ、オークの老人が屋台を畳み、顔のない怪異(かいい)が自販機の前で小銭を探していた。


 この街には、いろいろな者が普通にいる。普通にいるのに、少し手続きが狂えば、いなかったことにされる。


 屋台を畳むオークの老人にも、自販機の前で小銭を探す顔のない怪異(かいい)にも、それぞれ登録番号がある。番号があるうちは、彼らはこの街の住人だ。だが、その番号は、誰かの端末の中の、書き換え可能な一行にすぎない。一行が消えれば、屋台も、小銭も、その手も、都市の目には映らなくなる。今、普通に見えている風景は、帳簿がまだ機嫌を損ねていない、というだけのことだった。


 サエは隣を歩いていた。いつもより少し無口だった。


 俺は訊いた。


「大丈夫か」


「何が」


「さっきの」


「別に」


「別に、で片づく顔じゃない」


 サエは立ち止まった。こちらを見上げる。目が鋭い。


「見た?」


「全部は見てない」


「それ、さっきも聞いた」


「事実だ」


「旧登録名」


「文字化けしてた」


「実験体って文字は?」


 俺は答えなかった。


「逃走個体って文字は?」


 俺はさらに黙った。


「命令呼称って文字は?」


 俺は何も言わなかった。


 サエは笑った。薄い笑いだった。


「見てるじゃない」


「すまない」


「謝られるのも嫌」


「じゃあ何と言えばいい」


「何も」


 サエは歩き出した。俺も少し遅れて続く。


 高架下の風が、二人の間を抜けた。彼女の髪が少し揺れる。鎌鼬(かまいたち)の周りでは、風が普通の風ではなくなる。街の隙間を通る空気まで、彼女に気を遣っているように見える。


伊吹(いぶき)サエって、本名か」


 訊いた瞬間、失敗したと思った。


 サエは歩いたまま、少しだけ首を傾けた。


「今はね」


「昔は」


「追加料金」


「いくら」


「払えない額」


「なら聞かない」


「賢い」


 俺は、それ以上訊かなかった。訊けば、俺も同じことを訊かれる。久我(くが)ミナトという名は、本当に俺のものなのか。一度死んだことにされた男の名は、後から誰かに貼り直された札ではないのか。古椿(ふるつばき)の一言以来、その問いが、舌の裏に居座っている。俺たちは二人とも、自分の名前の出どころを、確かめないことで、かろうじて立っていた。


 それきり、しばらく会話はなかった。


 駅前の人混みが近づく。ヒューマン、エルフ、ドワーフ、オーク、登録済みの妖怪、未登録ぎりぎりの何か。誰もが端末を持ち、IDを持ち、改札を通るたびに自分が都市に認められていることを確認される。


 サエは改札の前で足を止めた。怪異(かいい)市民用の認証ゲートが、青く光っている。彼女はそれを、長く見た。


「管理されるのは嫌い」


 彼女が言った。


 俺は黙っていた。


「でも、最初からいなかったことにされるのは、もっと嫌い」


 名を切って生きる者にとって、都市の帳簿に一行あることは、屈辱であると同時に、細い錨でもあった。


 俺は、沼田(ぬまた)ゲンのことを思った。彼は今夜、その一行を取り戻した。完全ではない。だが、ゲートは、彼の名で開くようになった。


 それだけ言って、サエは認証ゲートに手をかざした。


 認証。登録名、伊吹(いぶき)サエ。分類、怪異(かいい)市民。通行許可。


 ゲートが開く。その瞬間、サエの端末が小さく震えた。彼女は画面を見た。俺の位置から、通知の一部だけが見えた。


 旧登録照会失敗。現在登録との不一致。再照合待機。


 再照合待機。向こうは、諦めていない。今夜、抹消処理の(おとり)に古い断片を出した代償が、こうして小さな通知になって、彼女の端末に返ってくる。一度でも表に出た記録は、誰かの棚に、照合待ちのまま残り続ける。


 サエは、何の表情もなく通知を消した。


「見た?」


 彼女が言った。


「何も」


「嘘が下手」


「努力する」


「努力じゃなくて、見てないことにして」


「わかった」


 サエはゲートの向こう側へ歩いた。俺は少し遅れてヒューマン用のゲートを通る。簡単だった。俺の登録は、何の問題もなく都市に認められた。


 あまりに簡単だった。古椿(ふるつばき)は、俺も昔、一度死んだことになっていると言った。それなのに、俺のゲートは、何のためらいもなく開く。サエの端末には照合失敗の通知が返り、俺の前ではゲートが静かに開く。この非対称が、灰桜(はいざくら)の苦味と一緒に、喉の奥に残った。


 それが、少しだけ気に入らなかった。

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