2-5
旧行政バックボーンの深部へ入るには、物理端子が必要だった。
古椿は最新のネットワークに直接入れない。いや、正確には、入れるが遅い。遅すぎる。古い妖怪は古い道を好む。最新の量子暗号を破るより、二十年前に作られた保守端子へ手を伸ばす方が早い。
問題は、その保守端子が旧庁舎のさらに下、地下鉄跡と連結した廃止サーバシャフトにあることだった。
「歩くの?」
サエが言った。
古椿は杖を手に、ゆっくり立ち上がった。
「歩く」
「じいさん、何歳」
「忘れた」
「便利ね」
「忘れるのは便利じゃぞ」
古椿は、杖の先で床を一度、軽く突いた。
「じゃがな。長く機械と繋がっておると、どれが先に起きたことか、わからんようになる。儂はもう、自分が何年、この部屋におるのか覚えとらん。昨日と、二十年前が、同じ棚に並んでおる。人の頭は、古いものを奥へしまう。儂の頭は、棚がひとつしかない」
「不便だな」
「便利と不便は、同じ引き出しに入っとる」
彼は自分の袖口から伸びた古いケーブルを、一本だけ指で撫でた。血管のように、それは背後のサーバへ吸い込まれている。
「忘れられん代わりに、順番を失う。順番を失うと、悲しみも、いつのことか、わからんようになる。それはそれで、楽じゃ。……楽なのが、いちばん質が悪い」
サエの声が、そこで少しだけ低くなった。
「そう? 忘れたものが追ってこないなら」
古椿は彼女を見た。何か言いそうになって、やめた。いい判断だった。
俺たちは古椿の案内で、サーバ室の奥にある保守扉から地下へ降りた。階段は狭い。サエが先頭、俺が中央、古椿が最後。いや、最後というより、置いていかれないようについてくる。だが、本人は急ぐ気がない。杖の音が、金属階段にゆっくり響く。
「急がんでも、記録は逃げん」
古椿が言った。
「企業は逃げる」
サエが返す。
「企業は毎日逃げとる。逃げ足だけは達者じゃ」
「じいさんは逃げないの」
サエが、階段の下から訊いた。
「儂は、逃げ場がケーブルの長さで決まっとる」
古椿は、自分の袖から伸びたケーブルを、軽く引いてみせた。
「動けん者は、逃げる代わりに、覚える。覚えることが、ここでは抵抗じゃ」
サエは急かすのを諦めたらしく、それきり黙って先を降りた。
地下六階相当の深さまで降りると、空気が湿り始めた。旧地下鉄の空洞とつながっているのだろう。壁には古い路線図があり、その上に新しい企業インフラのケーブルが雑に這わされている。
古いものの上に、新しいものが乗っている。この街そのものだった。
新しいケーブルは、古い路線図の駅名を、いくつも横切って隠していた。ここにあった駅も、その駅で降りた人々の朝も、地図の上ではもう見えない。消したのではない。上から別のものを乗せて、見えなくしただけだ。抹消というのは、たぶん、こういう手触りをしている。何も壊さず、ただ、上から札を貼る。
保守端子は、旧改札機の向こうにあった。だが、そこへ向かう途中で、警備ドローンが現れた。
最新型ではない。むしろ古い。丸い胴体に、安いカメラ。自治体時代の巡回ドローンを、企業が後から改造したものだ。だが、武装だけは新しい。小型の拘束弾発射機と、怪異市民用の抑制波発生器。
「旧式に新しい牙をつけるな」
俺が言うと、サエは肩を回した。
「切る?」
「数は」
「八」
「見えるのか」
「風が当たる」
サエは右手を軽く開いた。コートの袖の内側で、あの赤い駆動線が薄く灯る。空気が変わった。旧地下鉄のトンネルを抜ける微かな風が、彼女の周囲に集まる。鎌鼬は、風のある場所で強い。都市のビル風、換気ダクト、地下鉄の空気圧。どれも彼女の刃になる。
だが、ドローンは先に抑制波を撃った。低い振動音。俺の耳には、ただの不快なノイズに聞こえる。
サエには違ったらしい。彼女の膝が、一瞬だけ揺れた。
抑制波は、怪異市民を鎮めるために作られた波だ。もともとは、施術台に固定した実験体の抵抗を止めるための、医療用の周波数だという。サエの身体は、その音を、頭より先に覚えていた。膝が揺れたのは、力が抜けたからではない。従いかけたからだ。左手が、無意識に右手首へ伸びかける。彼女はそれを、意志の力で途中で止めた。
俺は反射的に銃を抜いた。一発。抑制波発生器を撃ち抜く。火花。
考えて撃ったのではない。サエの膝が揺れた瞬間、手が勝手に動いていた。頭より先に、手が反応する。企業に仕込まれた反射だ。加害のために仕込まれた速さが、今は、相棒の膝を守るために動く。皮肉な話だが、皮肉を言っている暇はなかった。
サエが舌打ちした。
「余計なこと」
「礼は」
「言わない」
「知ってる」
次の瞬間、風が走った。ドローンのローターが、まとめて落ちる。一機、二機、三機。残りが散開する前に、サエは旧改札機を踏んで跳んだ。黒いコートが翻る。彼女の右腕が振られるたびに、見えない刃が空気を裂く。
壊しすぎない。殺しすぎない。いや、相手は機械だ。殺すも何もない。それでも彼女は、必要な部分だけを切った。抑制波ユニット、通信アンテナ、武装基部。
最後の一機だけが、俺の方へ回り込む。俺が銃を上げる前に、サエの刃が飛んだ。カメラだけが落ちる。ドローンは壁にぶつかり、床に転がった。
「助かった」
「追加料金」
「はいはい」
俺は床のドローンを蹴ってどかした。
古椿は少し遅れてやってきた。
「若いのは元気じゃのう」
「じいさん、戦えないの」
サエが言う。
「戦えん」
「堂々と言った」
「戦える者が二人もおる」
「私は護衛じゃない」
「では何じゃ」
「高い女」
古椿は真面目な顔で頷いた。
「それは大事じゃ」
サエが少しだけ困った顔をした。こういう返しには弱いらしい。
保守端子は、改札横の古い機械室にあった。壁に埋め込まれた大型端子。今の規格とは合わない。古椿が持ってきた古いケーブルを接続すると、ブラウン管のような緑色の文字が端末に流れ始めた。
俺は作業を手伝う。こういう古い端子は、企業時代によく触った。新しいセキュリティより、古い保守口の方が現場では役に立つ。忘れられた道ほど、侵入には向いている。
「久我ミナト」
古椿が言った。
「何だ」
「お前さん、手が覚えとるな」
「嫌になるほどな」
「覚えとる手は、忘れた頭より正直じゃ」
「正直な手ほど、たちが悪い」
俺は言った。古い保守口の配線を、指がひとりでに追っていく。どこを外せば警報が鳴らないか、どこを繋げば記録が残らないか。頭で思い出す前に、手が先に動く。この手は、企業が俺に仕込んだ手順を、俺が忘れたあとも、律儀に覚えている。忘れたい過去ほど、体の側に居座る。
「手を憎んでも、手は言うことを聞かん」
古椿が、茶をすすった。
「なら、憎むのはやめて、使え。加害に使われた手でも、今夜は、死人を一人、生き返らせる」
「説教か」
「記録じゃ」
サエが横から覗いた。
「何してるの」
「沼田の最古ログを探す」
「見つかる?」
古椿はゆっくり首を振った。
「見つける」
古い端末が鳴った。画面に、沼田ゲンの登録情報が現れる。登録番号、分類、初回登録日、登録時年齢、保護者欄、勤務予定先、写真。
若い河童が、硬い顔でカメラを見ている。今より甲羅が小さく、目つきも少し鋭い。
「これが最古ログか」
「一部じゃな」
古椿がさらにキーを叩いた。別の画像が出た。
古い水路の脇で、若い沼田ゲンが膝をついている。周りには河童の子どもが三人いた。沼田は古い釣り針の結び方を教えているらしい。子どもたちは真剣な顔で、同じように口を尖らせ、糸を結ぼうとしている。
画面の端には、小さな説明文があった。水路安全教室。勤務外活動。第三排水区画、夏季。
「勤務記録じゃない」
俺が言うと、古椿は頷いた。
「生活記録じゃ。こっちの方が、人を残す」
俺は、画面の中の三人の河童の子どもを見た。沼田ゲンは、その小さな指を一本ずつ直してやっている。写真の隅の日付は、もう十年以上前だ。
「この子らは」
「さあな。育ったか、消えたか。ここには、そこまでは残っとらん」
古椿は淡々と言った。
「じゃがな。この男は、勤務の外で、消えるかもしれん子らに、釣り針の結び方を教えた。給料も出ん。記録にも、ほとんど残らん。誰も、そんなことは頼んでおらん」
誰も頼んでいないことを、勝手にやる。夜ごと変な音を立てる配管を放っておけず、その先で怖がっていた小さな座敷童に気づいた男の手つきが、この写真の中の手つきと、同じだった。壊れたものを、放っておけない。そういう手だった。
次の記録には、古い釣具を修理している沼田が映っていた。その次には、下水区画の小さな橋を補修する姿。さらにその次には、第七複合ビルの排水異常について、勤務外に自分の端末へ残したメモがあった。
――霊素濃度が高い。通常排水ではない。子どもの声のようなノイズあり。
――子どもの声、三回。泣いているようにも、警告しているようにも聞こえる。
――排水弁を一時閉鎖。非常灯が一度だけ点滅。
――こちらの作業を見ている。怖がっているように見える。
コマリを見つけたのは、偶然ではなかったのだ。沼田ゲンは、ちゃんと気づいていた。異常な排水に、霊素廃液に、そして地下で怖がっていた小さな座敷童に。
だから、消された。
古椿がキーボードを叩くと、画面に赤い警告が滲んだ。抹消処理進行中。表示は古い規格のくせに、その奥で動いている処理だけが妙に新しい。沼田ゲンの名前の横で、存在証明の破損率が数字を上げていく。七十、七十一、七十二。
その隅に、白い札のような印が貼りついていた。俺は目を細める。見覚えがあった。第七複合ビルの依頼書の末尾にあったものと、よく似ている。
記録系照合/IX-LOG。
「これも、企業の処理か」
俺が訊くと、古椿はすぐには答えなかった。ただ、画面の奥を見ていた。
「企業だけなら、まだわかりやすいんじゃがのう」
「どういう意味だ」
「企業の署名に似せておるが、企業の責任欄ではない。役所の顔をしておるが、役所の印でもない」
古椿の指が、古いキーの上で止まる。
「帳簿を整える者は、たいてい企業より丁寧じゃ」
「丁寧?」
「丁寧な処理ほど、人をきれいに消す」
「速いな」
俺が言うと、古椿は初めて表情を曇らせた。
「向こうが急いどる」
「止められるか」
「今のままでは足りん。抹消処理を別の古い記録へ逸らす必要がある」
「囮か」
「そうじゃ」
嫌な沈黙が落ちた。
俺は、地下六階の実験区画で見たサエの背中を思い出した。透明な隔壁の向こうの施術台。彼女が無意識に左手で右手首を押さえた、あの押さえ方。今は何もない手首を、昔そこに何かが嵌まっていた人間の癖で、押さえていた。
抹消処理の囮に自分の記録を出すというのは、あの手首の傷を、もう一度、都市の前に晒すのと同じことだった。
俺は言った。
「別の方法を、先に考えたい」
サエは初めて俺を見た。
「あなた、いい人ぶるの下手ね」
「褒めてないだろ」
「褒めてない」
彼女は壁から離れ、古い端末の緑の光の中へ、一歩踏み込んだ。その一歩に、ためらいがなかった。ためらいがなさすぎた。
一度だけ、喉が小さく動いた。
名前を呼ばれると身体が勝手に従いかける者が、狭い場所や医療機器に身が竦む者が、自分から傷の側へ歩いていくときの、あの作りものの平気さだった。
「私を使えばいい」
声は平坦だった。だが、彼女の右手は、自分の左手首を掴んでいた。地下六階の実験区画で見たときと同じ掴み方だった。そこには何もない。それでも、身体だけが何かを覚えている。
俺は彼女を見た。
「何を言ってる」
「私の記録、よく切れてるんでしょ。じいさん」
古椿は答えなかった。
サエは古椿を見据えた。
「古い切れ端ぐらい残ってるはず。抹消処理は、破損したログに食いつくんじゃないの」
「危ない」
古椿が静かに言った。
「お前さんの古い登録痕跡を表に出せば、企業も見る」
「知ってる」
「今の名に、古い名が繋がるかもしれん」
「知ってる」
「消したかったものも、戻る」
「それも知ってる」
サエの声は平坦だった。平坦すぎた。
俺は一歩前に出た。
「やめろ。別の方法を探す」
「時間ない」
「俺の記録を使え」
「あなたのは重すぎる」
「どういう意味だ」
サエは俺を見た。少しだけ笑った。
「じいさんが言ってたでしょ。私の記録はよく切れてる。切れ端なら、燃えても痛いだけで済む」
「本当にそうか」
俺が訊くと、サエは視線を逸らした。
「痛いのは慣れてる」
それは、答えではなかった。
「嫌ならやめろ」
俺が言うと、サエはほんの少しだけ眉を動かした。
「嫌だから使うの」
古椿は湯呑を持っていない手を、古い端末の上に置いた。
「無理には使わん」
「使って」
「後悔するかもしれん」
「じいさん」
サエの声が低くなった。
「私は後悔するために、わざわざ記録なんか残してない」
その言葉には、棘も、皮肉もなかった。ただ、事実だけがあった。
古椿は長い時間、彼女を見ていた。やがて、小さく頷く。
「わかった」
「サエ」
俺が呼ぶと、彼女は俺を見ずに言った。
「見るな」
「何を」
「出てくるもの」
端末の画面が切り替わった。古椿の指が、信じられないほどゆっくりとキーボードを打つ。だが、画面の中では古いデータが次々に開いていく。
怪異市民登録断片。分類、鎌鼬。性別、女。年齢、不明。旧登録名――命令呼称――
サエの手が動いた。端末を壊す寸前で、俺は彼女の手首を掴んだ。
風が鳴った。俺の頬のすぐ横を、見えない刃がかすめる。痛みは一瞬遅れて来た。頬に細い血が流れる。
サエが俺を見た。その目に、怒りがあった。怒りだけではなかった。
「見るなって言った」
「見てない」
「嘘」
「全部は見てない」
「同じ」
彼女は手を引いた。俺は放した。
端末には、旧登録名の一部だけが表示されていた。実験体。逃走個体。命令呼称。その後は、文字化けしている。数字が続いていた。名前ではなかった。
名前ではなく、番号。呼ぶための言葉ではなく、動かすための言葉。伊吹サエという名は、そこには一文字もなかった。この名は、彼女が後から、自分で選んで、上から貼った札だ。古椿の言う抹消とは逆の手つきで、彼女は自分に、新しい名を乗せていた。
サエは画面を見ていない。見なくても、そこに何が出ているのか知っている顔だった。
古椿が静かに言う。
「抹消処理が食いついた」
画面の警告が変わる。対象分散。沼田ゲンの存在証明、復元中。
サエの古い登録断片に、赤い処理線が絡みついていく。まるで、何かが古い傷口を探しているようだった。
サエは腕を組み、壁にもたれた。顔色は変わらない。だが、指先がわずかに震えていた。
抹消処理が、彼女の古い登録に食いついている。怪異にとって、名前や記録は、ただのデータではない。薄くても、切れていても、どこかで存在の根に繋がっている。今、遠くの機械が、その根を一本ずつ引いて、沼田ゲンの側へ手繰り寄せている。彼女は、自分の根を燃やして、他人の根を繋ぎ直させていた。
俺は何も言わなかった。言えば、彼女はたぶん怒る。怒ることで、平気なふりを続ける。それくらいは、もうわかっていた。
復元率、四十。五十八。七十一。
数字が上がるほど、沼田の輪郭が戻り、サエの輪郭が削られる。等価ではない。彼女の出した断片は「切れ端」で、沼田の存在は「一人ぶん」だ。割に合わない交換だった。
復元率が七十を越えたところで、画面が一度だけ白く瞬いた。古椿の指が止まる。
サエの旧登録断片に絡みついていた処理線の上を、別の照会が滑っていった。企業系の認証印。だが、それだけではない。
白札形式。だが、頭のコードが違う。白帳/名称照合。
その文字が、古い端末の中で一瞬だけ光る。まるで、誰かが遠くの部屋から白い手袋をした指を伸ばし、サエの古い傷に触れたようだった。
その照会は、乱暴でも、急いでもいなかった。ただ、丁寧に、確かめるように、サエの古い登録の縁をなぞっていく。
「古椿」
「なんじゃ」
「この照会、誰の趣味だ」
古椿は答えなかった。ただ、緑の光の中で、丸眼鏡を少しだけ持ち上げた。答えを知っていて、まだ言わない者の仕草だった。
サエは笑った。顔色は悪かった。
「見られたのう」
古椿が言った。
「なら、向こうも高くつく」
サエの声は軽かった。軽く聞こえるように、彼女はそう言った。
背後のトンネルから足音がした。企業部隊ではない。もっと軽い。抹消系プログラムの物理端末を守るための、旧式警備人形だった。
人間の形をした機械。顔はない。腕には拘束具。胸には古い自治体のマーク。その上から企業の管理シールが貼られている。
記録を守るための警備ではない。記録を消す処理を守るための警備だった。抹消処理は、記録だけでなく、端末に触れる手も消しに来るらしい。
「何体」
俺が訊く。
「四」
サエは端末から目を離さずに言った。
「動けるか」
「当たり前」
彼女は前へ出た。だが、一歩目で少しだけ足が鈍った。抹消処理に古い登録を噛ませている影響かもしれない。
「無理するな」
「命令?」
「提案」
「却下」
サエは走った。袖口で赤い線が不安定に明滅し、それでも風が起きる。旧地下鉄のトンネルを抜ける空気が、彼女の刃になる。
一体目の腕が落ちる。二体目の膝が砕ける。三体目が拘束具を撃つ。
俺が撃った。弾丸が拘束具の基部を壊す。
サエは俺を見ずに言う。
「また余計なこと」
「追加料金でいい」
「高いよ」
返す言葉は、いつも彼女が先に用意している。今日は譲ることにした。
最後の一体が、サエの背後へ回った。俺が撃つより早く、古椿の声が響く。
『右じゃ』
古いスピーカーからの声。サエは反射的に身を沈め、右腕を振った。警備人形の頭部が落ちる。
サエは息を吐き、床に片膝をついた。俺は駆け寄ろうとして、足を止めた。彼女が片手を上げたからだ。来るな、という合図だった。
抑制波を浴びた身体が、まだ言うことをきかないのだろう。手を貸せば、たぶん切られる。倒れているところを見られること自体を、彼女は嫌う。
俺は視線を、あえて壁の古い路線図へ逃がした。彼女が立ち上がるまでの数秒を、見なかったことにするために。
画面の復元率が九十を超える。
古椿が低く言った。
「あと少し」
端末の中で、沼田ゲンの最古ログが形を取り戻していく。初回登録。本人確認。水路作業許可。怪異市民番号。勤務記録。生活記録。水路安全教室。古い釣具修理。そして、存在証明。
最後に、若い河童の写真が鮮明になった。
復元完了。抹消処理停止。死亡記録、整合性不備。生存記録、再同期。
古い端末が、短い電子音を鳴らした。
沼田ゲンは、記録上も生き返った。
サエの旧登録断片は、画面から消えた。消えたのか、また隠れただけなのかはわからない。
サエは立ち上がった。顔色は悪い。だが、何事もなかったようにコートの裾を払った。
「終わった?」
「ああ」
俺は言った。
「助かった」
「誰が?」
「沼田が」
「ならいい」
サエはそれだけ言って、俺たちに背を向けた。
古椿は端末を閉じた。
「記録は戻った。だが、全部ではない」
「どういうことだ」
「勤務履歴の一部と、証言権限が欠けとる。法廷で証言しても、企業は信頼性を突いてくるじゃろう」
「完全には戻らないのか」
「完全という言葉は、記録には向かん」
古椿は古いケーブルを抜いた。
「だが、生きとる。都市も、ひとまずそれを認めた」
部分的な勝利。この街では、それだけでも贅沢だ。
沼田ゲンは、生き返る。だが、前と同じ場所には戻れない。勤務履歴の穴は、そのまま残る。彼の証言は、法廷では「信頼性に欠ける」と削られるだろう。都市の中で、彼は少しだけ薄くなった。輪郭の一部が、戻らないまま固定される。
全部は救えない。ひとつの記録を、今夜だけ、消えないところへ逃がす。帳外屋にできるのは、いつもそれくらいだった。




