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旧都庁第二庁舎は、都市の西側に残っていた。
今の東京湾岸行政区は、企業連合と神祇庁と複数の自治体代行会社によって運用されている。かつての都庁庁舎は、儀礼的な施設か、資料館か、観光用の廃墟になった。
ただし、完全には死んでいない。行政は死体を捨てるのが下手だ。古い配線、古い戸籍、古い怪異登録、古い亜人類分類、古い税務履歴。そういうものは、最新システムに移行されたように見えて、たいていどこかに古いまま残っている。
旧第二庁舎の裏手には、閉鎖された搬入口があった。錆びたシャッター。古い監視カメラ。手動の認証端子。壁には、剥がれかけた札。
――旧行政バックボーン保守区画。関係者以外立入禁止。
サエが札を見上げた。
「関係者?」
「関係したい」
「無理がある」
「帳外屋だ」
サエは今度は突っ込まず、ただ肩をすくめた。この理屈にはもう慣れたらしい。
彼女はシャッターの前に立ち、右手を軽く上げた。
「切るか?」
「待て。古い施設だ。切ると怒られるかもしれない」
「誰に」
「古いものに」
サエは面倒そうに腕を下ろした。
俺は灰桜をくわえ、霊素の流れを見る。煙はシャッターの右下へ流れた。そこに、旧式の手動端子がある。
アクセスキーを差す。認証、拒否。もう一度。警告。
サエが横から覗き込む。
「開かない?」
「古すぎる」
「便利じゃない犬」
「吠えるぞ」
「吠えて開くならどうぞ」
俺が三度目の認証を試そうとしたとき、古いスピーカーから咳払いが聞こえた。
『無理に開けるでない。そこは三十年前から調子が悪い』
老人の声だった。
サエが即座に周囲を見る。
「誰」
『誰、と聞くなら先に名乗るのが礼儀じゃ』
「侵入者に礼儀を求める?」
『侵入者ほど礼儀を知らんと長生きできん』
シャッターが、ぎこちなく上がり始めた。半分ほど開いたところで止まる。俺とサエは身を屈めて中へ入った。
通路は暗かった。壁沿いに古いケーブルが這い、天井には蛍光灯が残っている。そのうち半分は切れかけて、残り半分は嫌な音を立てていた。空気は冷たい。冷却ファンの低い音が、建物の奥からずっと響いている。
地下へ降りる。一階、二階、三階と沈んでいくと、階段の踊り場に古い行政ポスターが貼られていた。
――あなたの登録が、あなたを守る。
サエがそれを見て、鼻で笑った。
「いい標語だな」
俺が言うと、彼女はポスターから目を離さずに答えた。
「首輪の広告」
「守られたことは」
「あると思う?」
その言い方は、軽かった。軽すぎる言い方だった。
地下四階に、サーバ室があった。扉は分厚い。だが、鍵は開いていた。
中に入ると、時代が変わった。壁一面のサーバラック。古いメインフレーム。ブラウン管モニター。磁気テープ装置。床下を走るケーブル。最新の量子サーバの滑らかさとは違う。大きく、重く、熱を持ち、音を立てて生きている機械たちだった。
中央に、ちゃぶ台があった。その前に、老人が座っていた。
小柄な老人だった。七十代に見える。色の落ちた作務衣を着て、丸眼鏡をかけている。白髪はまばらで、頭のかたちに沿って撫でつけられていた。膝元には古い端末。手元には湯呑。
最初、俺はそれを老人の影だと思った。だが、違った。作務衣の袖口から、細い古いケーブルが何本も伸び、背後のサーバラックへ吸い込まれるように繋がっている。まるで、老人の血管が、そのまま機械へ続いているようだった。
背後のブラウン管モニターには、意味不明な文字列と、古い行政コードが流れている。その緑色の光が丸眼鏡のレンズにちらちらと映り、老人の両目を、二つの小さなモニターのように光らせていた。
人であって、機械であって、たぶんどちらでもない。付喪神という言葉が、これほど似合う相手を、俺は初めて見た。
道具は、長く使われると魂を宿す。だが、この老人が宿ったのは、誰かに大切に使われた道具ではない。都市が使い終えて、電源だけ切り忘れた行政サーバだ。捨て損ねられたものに宿った付喪神。忘れられることで、逆に、忘れられたものすべてを覚える器になった。哀れなのか、したたかなのか、俺には決めきれなかった。
老人は茶をすすり、こちらを見た。
「久我ミナト。まだ灰桜を吸っとるのか。体に悪いぞ」
俺は足を止めた。
サエが俺を見た。
「知り合い?」
「初対面だ」
「初対面の顔じゃない」
そのとき、背後のブラウン管モニターが一瞬だけ乱れた。緑色の文字列が流れる。
久我ミナト。旧登録照合中。状態欄、破損。死――
表示はそこで途切れ、すぐに別の行政コードへ呑まれた。
俺が目を細めると、老人は何事もなかったように茶をすすった。
「古い機械は、ときどき余計なものを映す」
「今のは何だ」
「余計なものじゃ」
「答えになってない」
「答えを見せるには、順番というものがある」
老人は笑った。歯の少ない、穏やかな笑い方だった。
「お前さんは初対面じゃろうな。儂はそうでもない」
「古椿か」
「みんな、そう呼ぶ」
「本名は」
「昔はあった気がする」
老人は湯呑を置いた。
「長く動いとるとな。名前より記録の方が残る」
サエが部屋を見回した。
「サーバが茶を飲むの」
「若いのは比喩を知らん」
「じいさんがサーバなの?」
「サーバでもあり、付喪神でもあり、ただの年寄りでもある。便利なように呼べばよい」
「じゃあ、じいさん」
「気が短いのう、鎌鼬は」
サエの目が細くなった。
「私のことも知ってる?」
古椿はサエを見た。長く、静かに。それから、ゆっくりと頷いた。
「記録は、少しだけ」
「少しだけ?」
「よく切れておる」
サエは笑わなかった。空気が、ほんの少しだけ冷えた気がした。
「切ったからね」
「自分でか」
「さあ」
古椿は茶をすすった。
「切るのは得意じゃろう」
「長生きしたいなら、黙ってた方がいい」
「儂はサーバじゃ。もう十分長生きしとる」
サエは舌打ちし、壁にもたれた。
俺は古椿の前に立った。
「沼田ゲンの死亡記録を戻したい」
「生きとるのに死んだことにされた河童か」
「知ってるのか」
「ここに来る者は、だいたい自分の話が珍しいと思っとる」
古椿は古いキーボードを叩いた。ブラウン管モニターに、緑色の文字が走る。
「沼田ゲン。河童系怪異市民。登録初年度は二〇五八年。水道補修組合、のち下水インフラ第三管理社へ移籍。勤務態度は良好。遅刻三回。無断欠勤なし。趣味は古い釣具の修理」
「そこまで出るのか」
「古いことならな」
「最新の行政網では死亡扱いだ」
「知っとる」
「直せるか」
「直すのは難しい。戻すなら、もっと難しい」
「何が必要だ」
「最古のログじゃ」
古椿は俺を見た。
「人が都市に存在したと証明するには、今の記録より古い記録が要る。今の記録は上書きされる。古い記録は、忘れられる。忘れられたものは、案外しぶとい」
「新しい記録より、古い記録の方が信用できるのか」
「新しい記録は、きれいに直されすぎる」
古椿は茶をすすった。
「古い記録は、汚れが残る。人の足跡も、手の脂も、消し損ねた嘘もな」
サエが小さく鼻を鳴らした。
「汚い方が信用できるってこと」
「この街では、わりとそうじゃ」
「沼田の最古ログはどこにある」
「旧行政バックボーンの深いところ。怪異市民登録の第一層じゃ。だが、問題がある」
「何だ」
「誰かがそこへ先に入っとる」
サエが壁から離れた。
「企業?」
「たぶんのう。だが、直接ではない。古い自動処理プログラムを使っとる。廃止されたはずの抹消系じゃ」
「抹消系」
俺は眉をひそめた。
「死亡記録じゃないのか」
「死亡は、終わったことにする記録じゃ」
古椿の声は穏やかだった。
「終わったことなら、まだ誰かが覚えている」
俺が言うと、老人は頷いた。
「そうじゃ。終わりには、見送る者がおる」
「抹消は、始まらなかったことにする記録じゃ」
古椿は、丸眼鏡の奥の目を、ゆっくりと俺へ向けた。ブラウン管の緑が、レンズの上を流れていく。
「死んだ者は、墓に名が残る。誰かが手を合わせる。命日がある。悲しむ相手がおる。死は、終わりじゃが、そこに『おった』ことは残る」
彼は湯呑を置いた。
「抹消はな、悲しむ相手ごと消す。墓もない。命日もない。『あの人はどこへ』と訊く者すら、記録から外される。誰も探さん。探す理由が、どこにも残っておらんからじゃ。最初から、おらんかったことになる」
サエの指が、右手首のあたりで止まった。すぐに離れる。
「……趣味が悪い」
「趣味ではない。処理じゃ」
古椿は静かに言った。
「処理だから、余計に悪い」
俺はそう返した。
「死亡なら、帳簿の端に線が引かれる」
古椿は、指で空中に細い線を引いた。
「抹消なら、その帳簿に載る前の棚ごと片づけられる」
部屋の冷却ファンの音が、やけに大きく聞こえた。
「沼田ゲンは、まだ死亡の段階じゃ。じゃが、向こうは死亡では済ませる気がない。抹消まで進めるつもりじゃ。死んだことにするだけでは、いずれ誰かが掘り返す。始まらなかったことにすれば、掘り返す者もおらん」
その場の空気が、少し重くなった。
「住所が消える。勤務履歴が消える。医療記録が消える。監視カメラのログが消える。最後に、名前を呼んだ記録が消える」
「肉体が生きていても」
「都市は見えん」
サエが低く言った。
「最悪」
古椿は彼女を見た。
「お前さんは、それをよく知っとる顔じゃ」
「知らない」
「そうか」
古椿は、それ以上言わなかった。言わないことが、逆に残った。




