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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第二話 記録は忘れない

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12/16

2-4

 旧都庁第二庁舎は、都市の西側に残っていた。


 今の東京湾岸(とうきょうわんがん)行政区は、企業連合と神祇庁(じんぎちょう)と複数の自治体代行会社によって運用されている。かつての都庁庁舎は、儀礼的な施設か、資料館か、観光用の廃墟になった。


 ただし、完全には死んでいない。行政は死体を捨てるのが下手だ。古い配線、古い戸籍、古い怪異(かいい)登録、古い亜人類(あじんるい)分類、古い税務履歴。そういうものは、最新システムに移行されたように見えて、たいていどこかに古いまま残っている。


 旧第二庁舎の裏手には、閉鎖された搬入口があった。錆びたシャッター。古い監視カメラ。手動の認証端子。壁には、剥がれかけた札。


 ――旧行政バックボーン保守区画。関係者以外立入禁止。


 サエが札を見上げた。


「関係者?」


「関係したい」


「無理がある」


帳外屋(ちょうがいや)だ」


 サエは今度は突っ込まず、ただ肩をすくめた。この理屈にはもう慣れたらしい。


 彼女はシャッターの前に立ち、右手を軽く上げた。


「切るか?」


「待て。古い施設だ。切ると怒られるかもしれない」


「誰に」


「古いものに」


 サエは面倒そうに腕を下ろした。


 俺は灰桜(はいざくら)をくわえ、霊素(れいそ)の流れを見る。煙はシャッターの右下へ流れた。そこに、旧式の手動端子がある。


 アクセスキーを差す。認証、拒否。もう一度。警告。


 サエが横から覗き込む。


「開かない?」


「古すぎる」


「便利じゃない犬」


「吠えるぞ」


「吠えて開くならどうぞ」


 俺が三度目の認証を試そうとしたとき、古いスピーカーから咳払いが聞こえた。


『無理に開けるでない。そこは三十年前から調子が悪い』


 老人の声だった。


 サエが即座に周囲を見る。


「誰」


『誰、と聞くなら先に名乗るのが礼儀じゃ』


「侵入者に礼儀を求める?」


『侵入者ほど礼儀を知らんと長生きできん』


 シャッターが、ぎこちなく上がり始めた。半分ほど開いたところで止まる。俺とサエは身を屈めて中へ入った。


 通路は暗かった。壁沿いに古いケーブルが這い、天井には蛍光灯が残っている。そのうち半分は切れかけて、残り半分は嫌な音を立てていた。空気は冷たい。冷却ファンの低い音が、建物の奥からずっと響いている。


 地下へ降りる。一階、二階、三階と沈んでいくと、階段の踊り場に古い行政ポスターが貼られていた。


 ――あなたの登録が、あなたを守る。


 サエがそれを見て、鼻で笑った。


「いい標語だな」


 俺が言うと、彼女はポスターから目を離さずに答えた。


「首輪の広告」


「守られたことは」


「あると思う?」


 その言い方は、軽かった。軽すぎる言い方だった。


 地下四階に、サーバ室があった。扉は分厚い。だが、鍵は開いていた。


 中に入ると、時代が変わった。壁一面のサーバラック。古いメインフレーム。ブラウン管モニター。磁気テープ装置。床下を走るケーブル。最新の量子サーバの滑らかさとは違う。大きく、重く、熱を持ち、音を立てて生きている機械たちだった。


 中央に、ちゃぶ台があった。その前に、老人が座っていた。


 小柄な老人だった。七十代に見える。色の落ちた作務衣(さむえ)を着て、丸眼鏡をかけている。白髪はまばらで、頭のかたちに沿って撫でつけられていた。膝元には古い端末。手元には湯呑(ゆのみ)


 最初、俺はそれを老人の影だと思った。だが、違った。作務衣(さむえ)の袖口から、細い古いケーブルが何本も伸び、背後のサーバラックへ吸い込まれるように繋がっている。まるで、老人の血管が、そのまま機械へ続いているようだった。


 背後のブラウン管モニターには、意味不明な文字列と、古い行政コードが流れている。その緑色の光が丸眼鏡のレンズにちらちらと映り、老人の両目を、二つの小さなモニターのように光らせていた。


 人であって、機械であって、たぶんどちらでもない。付喪神(つくもがみ)という言葉が、これほど似合う相手を、俺は初めて見た。


 道具は、長く使われると魂を宿す。だが、この老人が宿ったのは、誰かに大切に使われた道具ではない。都市が使い終えて、電源だけ切り忘れた行政サーバだ。捨て損ねられたものに宿った付喪神(つくもがみ)。忘れられることで、逆に、忘れられたものすべてを覚える器になった。哀れなのか、したたかなのか、俺には決めきれなかった。


 老人は茶をすすり、こちらを見た。


久我(くが)ミナト。まだ灰桜(はいざくら)を吸っとるのか。体に悪いぞ」


 俺は足を止めた。


 サエが俺を見た。


「知り合い?」


「初対面だ」


「初対面の顔じゃない」


 そのとき、背後のブラウン管モニターが一瞬だけ乱れた。緑色の文字列が流れる。


 久我(くが)ミナト。旧登録照合中。状態欄、破損。死――


 表示はそこで途切れ、すぐに別の行政コードへ呑まれた。


 俺が目を細めると、老人は何事もなかったように茶をすすった。


「古い機械は、ときどき余計なものを映す」


「今のは何だ」


「余計なものじゃ」


「答えになってない」


「答えを見せるには、順番というものがある」


 老人は笑った。歯の少ない、穏やかな笑い方だった。


「お前さんは初対面じゃろうな。(わし)はそうでもない」


古椿(ふるつばき)か」


「みんな、そう呼ぶ」


「本名は」


「昔はあった気がする」


 老人は湯呑(ゆのみ)を置いた。


「長く動いとるとな。名前より記録の方が残る」


 サエが部屋を見回した。


「サーバが茶を飲むの」


「若いのは比喩を知らん」


「じいさんがサーバなの?」


「サーバでもあり、付喪神(つくもがみ)でもあり、ただの年寄りでもある。便利なように呼べばよい」


「じゃあ、じいさん」


「気が短いのう、鎌鼬(かまいたち)は」


 サエの目が細くなった。


「私のことも知ってる?」


 古椿(ふるつばき)はサエを見た。長く、静かに。それから、ゆっくりと頷いた。


「記録は、少しだけ」


「少しだけ?」


「よく切れておる」


 サエは笑わなかった。空気が、ほんの少しだけ冷えた気がした。


「切ったからね」


「自分でか」


「さあ」


 古椿(ふるつばき)は茶をすすった。


「切るのは得意じゃろう」


「長生きしたいなら、黙ってた方がいい」


(わし)はサーバじゃ。もう十分長生きしとる」


 サエは舌打ちし、壁にもたれた。


 俺は古椿(ふるつばき)の前に立った。


沼田(ぬまた)ゲンの死亡記録を戻したい」


「生きとるのに死んだことにされた河童(かっぱ)か」


「知ってるのか」


「ここに来る者は、だいたい自分の話が珍しいと思っとる」


 古椿(ふるつばき)は古いキーボードを叩いた。ブラウン管モニターに、緑色の文字が走る。


沼田(ぬまた)ゲン。河童(かっぱ)怪異(かいい)市民。登録初年度は二〇五八年。水道補修組合、のち下水インフラ第三管理社へ移籍。勤務態度は良好。遅刻三回。無断欠勤なし。趣味は古い釣具の修理」


「そこまで出るのか」


「古いことならな」


「最新の行政網では死亡扱いだ」


「知っとる」


「直せるか」


「直すのは難しい。戻すなら、もっと難しい」


「何が必要だ」


「最古のログじゃ」


 古椿(ふるつばき)は俺を見た。


「人が都市に存在したと証明するには、今の記録より古い記録が要る。今の記録は上書きされる。古い記録は、忘れられる。忘れられたものは、案外しぶとい」


「新しい記録より、古い記録の方が信用できるのか」


「新しい記録は、きれいに直されすぎる」


 古椿(ふるつばき)は茶をすすった。


「古い記録は、汚れが残る。人の足跡も、手の脂も、消し損ねた嘘もな」


 サエが小さく鼻を鳴らした。


「汚い方が信用できるってこと」


「この街では、わりとそうじゃ」


沼田(ぬまた)の最古ログはどこにある」


「旧行政バックボーンの深いところ。怪異(かいい)市民登録の第一層じゃ。だが、問題がある」


「何だ」


「誰かがそこへ先に入っとる」


 サエが壁から離れた。


「企業?」


「たぶんのう。だが、直接ではない。古い自動処理プログラムを使っとる。廃止されたはずの抹消系じゃ」


「抹消系」


 俺は眉をひそめた。


「死亡記録じゃないのか」


「死亡は、終わったことにする記録じゃ」


 古椿(ふるつばき)の声は穏やかだった。


「終わったことなら、まだ誰かが覚えている」


 俺が言うと、老人は頷いた。


「そうじゃ。終わりには、見送る者がおる」


「抹消は、始まらなかったことにする記録じゃ」


 古椿(ふるつばき)は、丸眼鏡の奥の目を、ゆっくりと俺へ向けた。ブラウン管の緑が、レンズの上を流れていく。


「死んだ者は、墓に名が残る。誰かが手を合わせる。命日がある。悲しむ相手がおる。死は、終わりじゃが、そこに『おった』ことは残る」


 彼は湯呑(ゆのみ)を置いた。


「抹消はな、悲しむ相手ごと消す。墓もない。命日もない。『あの人はどこへ』と訊く者すら、記録から外される。誰も探さん。探す理由が、どこにも残っておらんからじゃ。最初から、おらんかったことになる」


 サエの指が、右手首のあたりで止まった。すぐに離れる。


「……趣味が悪い」


「趣味ではない。処理じゃ」


 古椿(ふるつばき)は静かに言った。


「処理だから、余計に悪い」


 俺はそう返した。


「死亡なら、帳簿の端に線が引かれる」


 古椿(ふるつばき)は、指で空中に細い線を引いた。


「抹消なら、その帳簿に載る前の棚ごと片づけられる」


 部屋の冷却ファンの音が、やけに大きく聞こえた。


沼田(ぬまた)ゲンは、まだ死亡の段階じゃ。じゃが、向こうは死亡では済ませる気がない。抹消まで進めるつもりじゃ。死んだことにするだけでは、いずれ誰かが掘り返す。始まらなかったことにすれば、掘り返す者もおらん」


 その場の空気が、少し重くなった。


「住所が消える。勤務履歴が消える。医療記録が消える。監視カメラのログが消える。最後に、名前を呼んだ記録が消える」


「肉体が生きていても」


「都市は見えん」


 サエが低く言った。


「最悪」


 古椿(ふるつばき)は彼女を見た。


「お前さんは、それをよく知っとる顔じゃ」


「知らない」


「そうか」


 古椿(ふるつばき)は、それ以上言わなかった。言わないことが、逆に残った。

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