13-10
「数えた?」
サエが訊いた。
彼女はソファに浅く座っている。肩の血は拭いたが、着替えてはいない。
「途中まで」
俺は言った。
「橋で十九。港は数えてない。地下は御堂も数えてない。屋根は……銀次がそのうち請求書で寄越すと言ってた」
「あの狸爺」
「猫又だ」
「似たようなもの」
サエは目を閉じた。
俺は机の紙を見た。昨日書いた名簿だ。名前の横に短い言葉が並んでいる。
全部の名前がまだそこにあった。誰も線を引いて消していない。
だが、その紙のどこにも書いていないものがある。
四千二百十一件。あの女はそう言った。
今夜通り抜けたのはたぶん、百人には届かない。
残りは今日から数日のあいだに順番どおり処理される。俺は一晩止めただけだ。止まったものはまた動く。
それでもこの紙は捨てない。捨てれば、今夜のことが誰の頭の中にも残らなくなる。
俺は紙を畳んで机の引き出しへ入れた。端末には入れない。書けば記録が残る。
記録に残らないものを覚えておくのは、人間の仕事だ。
「ねえ」
サエが目を閉じたまま言った。
「勝った?」
「いや」
「負けた?」
「それも違う」
俺は灰桜を口にくわえた。
火はつけない。フィルターを噛む。青い光が点いた。
指は震えたままだった。
*
「効かなくなったの」
サエが目を開けていた。
いつから見ていたのかはわからない。この女は、そういうところだけは見逃さない。
「ああ」
「壊れたの?」
「煙草は壊れてない」
俺は言った。
「受け取るほうが、壊れた」
サエは黙っていた。
「治る?」
「わからん」
「医者は」
「行けない。知ってるだろ」
彼女はそれ以上訊かなかった。
かわりに立ち上がって、事務所の奥から毛布を持ってきた。俺の肩にかけてまた座った。何も言わない。
この女は慰めない。
ただ、支えられる場所にいる。
「一つだけ言っとく」
しばらくしてサエが言った。
「震えてる手でも私の背中は見ていられる」
俺がいつだったか言った台詞だ。二度目に返された。
「……ああ」
「だから辞めるとか言い出さないで。面倒だから」
「言わない」
「追加料金」
「何の」
「聞いてあげた分」
*
昼近くに橋のほうから連絡が来た。
ヨナからではない。彼女が送迎していた施設の保護者の一人からだった。
――守屋さん、腕がありません。
その一行を読んで俺は、端末を置いた。
――生きてはいます。病院には行かないと言っています。記録が残るからと。
――子どもは。
――十九人、こちらにいます。三人は間に合いませんでした。
三人。
俺はその数字から目を離せなかった。
名前は書いていなかった。訊けば教えてくれただろう。訊かなかった。
訊いてしまえば、俺は、今夜のことを三人のせいで失敗した夜として覚える。十九人のほうを忘れる。人の頭は、そういうふうにできている。
だから数字のままにした。卑怯だと思いながら、そうした。
*
ナギの行方はわからなかった。
夜のあいだ、区の外周を走り回っていたことは認証機の記録の断片でわかる。追撃部隊の七割がそちらへ引かれていた。
朝になって記録が途切れた。捕まったのか、逃げ切ったのか、どちらとも書いていない。
「あの子は」
俺が訊くと、サエは目を閉じたまま答えた。
「大丈夫」
「根拠は」
「逃げ足が速いから。……私と同じ形式だもの」
それは前にも聞いた台詞だった。
あのときと違って、今度の声は少しだけ硬かった。自分に言い聞かせている声だ。
俺は裏帳簿を開いて、外周の認証記録の断片をもう一度なぞった。
北の高架下で一度。東の環状路で二度。それから南の埠頭寄りで一度。
走った線は綺麗だった。追われている者の走り方ではない。追わせている者の走り方だ。わざと認証機の前を通って、また離れて、また通る。
教えた者はいない。サエも教えていない。
同じ形式の身体が、同じ結論に辿り着いたということだ。
――速いのは得意。
あの子はそう言って走っていった。
得意なことを一つだけ持って、それを今夜のために使った。どの帳簿にも載らない使い方で。
「捕まってたら」
「そのときはまた切りに行く」
サエはそう言って、寝返りを打つように顔を背けた。
*
昼前に古椿から通信が入った。
――生きとるか。
――たぶん。
――たぶんか。
少し間があった。
――お前さん、通りが薄くなっとるな。
――わかるのか。
――声でわかる。……霊素の通らん身体は、線の向こうでもそういう音がする。
俺は返事を打たなかった。
――灰桜は効くまい。
――効かない。
――じゃろうな。あれは霊素安定剤じゃ。通る身体にしか効かん。……道具は悪くない。お前さんのほうが、通らなくなっただけよ。
老人の言い方は、いつもどおりだった。慰めもしないし、脅しもしない。ただ、起きたことを言う。
――棚はどうなった。
――空じゃ。じゃが中身は、この街のあちこちにおる。いつか誰かが拾う。
――倉のことは。
長い間があった。
――聞いた。
それだけだった。
――あれはな、久我。逃げなかったのではない。逃げられんかったのでもない。……預かったものを置いて逃げる、という選択肢があの倉の頭には最初から無かったんじゃよ。
――それは。
――性分というやつじゃ。褒めても貶してもおらん。ただ、そうだった、と言うとる。
通信はそこで切れた。




