↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第一三話 帳の外で生きている

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

106/107

13-10

「数えた?」


 サエが訊いた。


 彼女はソファに浅く座っている。肩の血は拭いたが、着替えてはいない。


「途中まで」


 俺は言った。


「橋で十九。港は数えてない。地下は御堂(みどう)も数えてない。屋根は……銀次(ぎんじ)がそのうち請求書で寄越すと言ってた」


「あの狸爺」


「猫又(ねこまた)だ」


「似たようなもの」


 サエは目を閉じた。


 俺は机の紙を見た。昨日書いた名簿だ。名前の横に短い言葉が並んでいる。


 全部の名前がまだそこにあった。誰も線を引いて消していない。


 だが、その紙のどこにも書いていないものがある。


 四千二百十一件。あの女はそう言った。


 今夜通り抜けたのはたぶん、百人には届かない。


 残りは今日から数日のあいだに順番どおり処理される。俺は一晩止めただけだ。止まったものはまた動く。


 それでもこの紙は捨てない。捨てれば、今夜のことが誰の頭の中にも残らなくなる。


 俺は紙を畳んで机の引き出しへ入れた。端末には入れない。書けば記録が残る。


 記録に残らないものを覚えておくのは、人間の仕事だ。


「ねえ」


 サエが目を閉じたまま言った。


「勝った?」


「いや」


「負けた?」


「それも違う」


 俺は灰桜(はいざくら)を口にくわえた。


 火はつけない。フィルターを噛む。青い光が点いた。


 指は震えたままだった。


     *


「効かなくなったの」


 サエが目を開けていた。


 いつから見ていたのかはわからない。この女は、そういうところだけは見逃さない。


「ああ」


「壊れたの?」


「煙草は壊れてない」


 俺は言った。


「受け取るほうが、壊れた」


 サエは黙っていた。


「治る?」


「わからん」


「医者は」


「行けない。知ってるだろ」


 彼女はそれ以上訊かなかった。


 かわりに立ち上がって、事務所の奥から毛布を持ってきた。俺の肩にかけてまた座った。何も言わない。


 この女は慰めない。


 ただ、支えられる場所にいる。


「一つだけ言っとく」


 しばらくしてサエが言った。


「震えてる手でも私の背中は見ていられる」


 俺がいつだったか言った台詞だ。二度目に返された。


「……ああ」


「だから辞めるとか言い出さないで。面倒だから」


「言わない」


「追加料金」


「何の」


「聞いてあげた分」


     *


 昼近くに橋のほうから連絡が来た。


 ヨナからではない。彼女が送迎していた施設の保護者の一人からだった。


 ――守屋(もりや)さん、腕がありません。


 その一行を読んで俺は、端末を置いた。


 ――生きてはいます。病院には行かないと言っています。記録が残るからと。


 ――子どもは。


 ――十九人、こちらにいます。三人は間に合いませんでした。


 三人。


 俺はその数字から目を離せなかった。


 名前は書いていなかった。訊けば教えてくれただろう。訊かなかった。


 訊いてしまえば、俺は、今夜のことを三人のせいで失敗した夜として覚える。十九人のほうを忘れる。人の頭は、そういうふうにできている。


 だから数字のままにした。卑怯だと思いながら、そうした。


     *


 ナギの行方はわからなかった。


 夜のあいだ、区の外周を走り回っていたことは認証機の記録の断片でわかる。追撃部隊の七割がそちらへ引かれていた。


 朝になって記録が途切れた。捕まったのか、逃げ切ったのか、どちらとも書いていない。


「あの子は」


 俺が訊くと、サエは目を閉じたまま答えた。


「大丈夫」


「根拠は」


「逃げ足が速いから。……私と同じ形式だもの」


 それは前にも聞いた台詞だった。


 あのときと違って、今度の声は少しだけ硬かった。自分に言い聞かせている声だ。


 俺は裏帳簿を開いて、外周の認証記録の断片をもう一度なぞった。


 北の高架下で一度。東の環状路で二度。それから南の埠頭(ふとう)寄りで一度。


 走った線は綺麗だった。追われている者の走り方ではない。追わせている者の走り方だ。わざと認証機の前を通って、また離れて、また通る。


 教えた者はいない。サエも教えていない。


 同じ形式の身体が、同じ結論に辿り着いたということだ。


 ――速いのは得意。


 あの子はそう言って走っていった。


 得意なことを一つだけ持って、それを今夜のために使った。どの帳簿にも載らない使い方で。


「捕まってたら」


「そのときはまた切りに行く」


 サエはそう言って、寝返りを打つように顔を背けた。


     *


 昼前に古椿(ふるつばき)から通信が入った。


 ――生きとるか。


 ――たぶん。


 ――たぶんか。


 少し間があった。


 ――お前さん、通りが薄くなっとるな。


 ――わかるのか。


 ――声でわかる。……霊素(れいそ)の通らん身体は、線の向こうでもそういう音がする。


 俺は返事を打たなかった。


 ――灰桜(はいざくら)は効くまい。


 ――効かない。


 ――じゃろうな。あれは霊素(れいそ)安定剤じゃ。通る身体にしか効かん。……道具は悪くない。お前さんのほうが、通らなくなっただけよ。


 老人の言い方は、いつもどおりだった。慰めもしないし、脅しもしない。ただ、起きたことを言う。


 ――棚はどうなった。


 ――空じゃ。じゃが中身は、この街のあちこちにおる。いつか誰かが拾う。


 ――倉(くら)のことは。


  長い間があった。


 ――聞いた。


 それだけだった。


 ――あれはな、久我(くが)。逃げなかったのではない。逃げられんかったのでもない。……預かったものを置いて逃げる、という選択肢があの倉(くら)の頭には最初から無かったんじゃよ。


 ――それは。


 ――性分というやつじゃ。褒めても貶してもおらん。ただ、そうだった、と言うとる。


 通信はそこで切れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。