13-9
俺は床に座り込んだ。
照合中の二文字がまだ画面に並んでいる。止まっている。
止まっているのに、身体のほうが止まらなかった。
うまく言えない。処理の列に自分を挟んだまま、その列のほうへ少しずつ引かれている感じがした。名前が輪郭を失っていく。俺が俺でなくなって、ただの照合対象の番号に戻っていく。
いい気分だった。
それが、いちばん怖かった。
いつだったか、同じことがあった。あのときは辞退の文字に触れて戻った。
今夜は辞退の欄がない。俺は自分で欄の中へ入ったからだ。
名前を思い出そうとした。
思い出せなかった。
数字なら、いくらでも出てきた。処理番号。稼働区分。登録状態。全部、すらすらと出てくる。頭の中にそういう欄しか残っていなかった。
*
「ミナト」
声がした。
階段の下からだ。俺は顔を上げられなかった。
「ミナト。戻ってこい」
旧名ではなかった。死亡記録でも、社員番号でも回収対象でもなかった。
俺が自分で名乗ってきた名前。この女がいつも呼ぶ名前。
滲みかけた輪郭が、その一声で留まった。
サエが階段を降りてきた。片方の肩に血がついている。ナズナのものか、彼女自身のものかはわからなかった。
「ひどい顔」
「そっちもだ」
「私は血だけ。あんたは中身」
彼女は俺の横に膝をついた。触らない。近すぎず、遠すぎず、倒れたら支えられる距離に。
「名前、言える?」
「……久我ミナト」
「もう一回」
「久我ミナトだ」
「よし」
サエはそこで初めて、息を吐いた。
「一回目、番号を言いかけた」
「言ってない」
「言いかけた。私は聞いてた」
彼女は俺の腕を掴んで引き上げた。
いつだったか、あの女が旧名で呼ばれて膝をついたとき、俺は、名前を並べて引き戻した。今夜は逆だった。
名前を選んだ女が、名前を返された男をその名前で呼び戻した。
返ってきたものが返し返された。それだけのことに今夜は救われた。
*
朝が来た。
数える街の数えられる朝だ。無人トラックの列が、番号のついた荷を決められた道で運んでいく。何も変わっていない。
俺たちは事務所の窓からそれを見ていた。
報告は夜明けまでに一通り入った。
橋。二十二人のうち、十九人が渡った。三人は渡れなかった。ヨナは左腕を持っていかれた。骨格補強義体が武器扱いだったので、規格ごと外された。彼女は病院へは行かなかった。行けば記録が残るからだ。
港。ゲートは開いたまま止まり、クレーンは荷の上で止まった。朝になって企業の人間が来て、手順書を確認して頭を抱えて帰っていった。ガント班は全員、その場に立っていた。誰も降りなかった。
地下。御堂と輪入道が南北の二本を夜通し往復した。何人運んだかは御堂も数えていない。ただ、夜明け前に短い通信が来た。
――今夜走った区間、封鎖命令が出た。埋め戻すそうだ。
――すまん。
――謝るな。道路屋は、道が閉じたらまた別の道を覚える。
それからもう一行。
――ただ、あの道は、あんたを運んだ道でもあった。覚えておく。
屋根。猫又の連中は夜通し走った。ナズナは耳を三針縫った。荷は全部、落とさずに届いた。
地下保守区画。ガンテツたちが手動バルブで水と通信を迂回させた。区画の半分は、そのまま閉鎖された。
四人のうち二人が病院へ運ばれた。腕ではない。脱水だ。一晩、水の系統を回し続けて自分たちは水を飲んでいなかった。
ガンテツからの連絡は一行だった。
――区画は半分になった。だが手は残った。
閉鎖されたのは自動制御へ移っていた側で、腕で回す側は最後まで動いた。行政の系統から外れている分だけ、閉じる書式も作りにくい。
この街では、古いもののほうが閉じにくい。
広告。ルカの人格モデルが、街じゅうの看板を偽の顔で埋めた。認証機は一晩、街じゅうの誰も彼もを同じ一人の女だと報告し続けた。
朝六時、街の看板が一斉に落ちた。
白い画面がしばらく続いて、それから別の顔が出た。知らない女だ。若い。笑い方がよく似ている。同じ型で作られたのだろう。
ルカの人格モデルは回収された。
本人からは一行だけ届いた。
――看板から消えました。
――身体は。
――あります。
――なら、勝ちだ。
――そうします。
そうします、という返し方をこの女はする。事実ではなく、これから自分がそう扱うということを書く。
街じゅうに貼られていた顔が今朝から別人になった。それに気づいた人間が、この街に何人いるだろう。
旧サーバ。古椿の棚は空になった。中身は街のあちこちに薄く散っている。
そして。
*
倉は消えた。
港湾第六蔵置区。空コンテナの集積区。処分の順番は、俺が止めた列の中に入っていなかった。別系統だったのだ。
夜のあいだにあの倉庫は、器ごと片づけられた。
最後の通信が明け方に届いていた。古い保守回線から途切れ途切れに。
『たくさん、預かった』
それだけだった。
あとで狐の裏帳簿を辿って、わかったことがある。倉ぼっこは昨夜、限界まで隠していた。廃棄人格。不整合の記録。古椿が撒いた棚の中身の一部まで引き受けていた。
空箱の底へ最後の一つまで詰め込んで、それから器ごと持っていかれた。
隠したものは残った。
隠した本人が消えた。
俺はその報告を三度読んだ。三度読んでも同じことしか書いていなかった。
あの倉は前にこう言った。荷はいつか取りに来られる。だから倉は待つ。取りに来ない荷を待っているうちに待つことと匿うことの区別がつかなくなった、と。
最後まで区別は、つけなかったのだと思う。
通信の切れ端を狐の裏帳簿が拾っていた。
倉ぼっこの最後の数分だ。無数の声が重なった、あの喋り方で。
『まだ入る』
『もう少し』
『そっちの棚を空けろ。古い荷を奥へ寄せろ』
『まだ入る』
誰に言っているのでもない。自分に言っていた。
最後の一行だけ、声が揃っていた。
『たくさん、預かった』
それが、記録に残っている最後だった。
俺はその一行を消えない場所へ移した。古椿の棚は空になっていたが、空だからこそ一行くらいは入る。
名前のない子の記録を置いたのと同じ場所だ。ルカの名前も、そこにある。
倉は預かったものを勝手に捨てなかった。だから最後に誰かが倉のことを預かる番だった。




