13-8
白瀬は端末を下ろした。
「久我さん」
「なんだ」
「一つ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは今夜、何人逃がすつもりですか」
声が出なかった。
数えていなかったからだ。名簿には名前を書いたが、その先に何人いるかは誰も数えていない。
「わかりません、でいいですよ」
彼女は言った。
「私は数えています。今夜の対象は、区内で四千二百十一件。そのうち、今この瞬間に停止している処理が三千八百件ほど。……あなたが止めたのはそれだけです」
「多いのか、少ないのか」
「多いです。びっくりするくらい」
白瀬はあっさりと言った。
「ですが、明日の朝には再開します。再開すれば、数日で追いつきます。あなたが逃がすのはその数日のあいだに姿を消せた人だけです。……たぶん、百人には届かないでしょう」
四千二百十一件のうちの百人未満。
その数字を俺は口の中で転がした。
「それでもゼロじゃない」
「ええ。ゼロではありません」
彼女はうなずいた。
「そこは私も認めます。……ただ、申し上げておきます。あなたが今夜やったことで制度は何も変わりません。書式も変わりません。来月には同じことがもっと丁寧な手順で行われます。今夜の穴も埋めます」
「わかってる」
「わかっていて、やったんですね」
「ああ」
「……それが、いちばん厄介です」
白瀬は端末に一行だけ書き込んだ。
「損得で動く方は、損得で止められます。恐怖で動く方は、恐怖で止められます。ですが、わかっていてなお、やる方は。……私の手元にある道具では止められません」
*
彼女はこちらへ一歩近づいた。
それだけだった。殴りもしないし、掴みもしない。
「久我さん。あなた、顔色が悪い」
「そうか」
「何を差し出しましたか」
俺は答えなかった。
白い手袋の指が少しだけ動いた。
「差し出したものが何かは私にはわかりません。帳簿には出ませんから。……ただ、そういう顔を私は、前にも見たことがあります。何度か」
「どうなった」
「戻りませんでした」
簡単な返事だった。
彼女は視線をこちらへ戻した。
「久我さん。もう一つ、伺っておきます」
「なんだ」
「今夜、実行個体を一体、失いました」
俺は顔を上げた。
「南の旧保守通路です。三時六分に応答が切れました」
白瀬は端末を見ていない。数字を覚えている。
「回収に行かせました。破片も残骸も出ませんでした。……交戦の記録もありません。出力の変動もない。ただ、そこで途切れています」
「壊れたんだろ」
「壊れたなら記録が残ります」
彼女は静かに言った。
「あれは壊れる前に必ず一行残すように作ってあります。何に壊されたのかがわからなければ、次の設計ができませんから。……今夜は、その一行がありません」
「あんたの帳簿の穴だな」
「ええ。今夜、二つ目の穴です」
彼女は首をわずかに傾けた。
「久我さん。あなたはあの通路を通っていますね」
「通った」
「何かご覧になりましたか」
俺は一拍置いた。
見た。目で見た。それだけだ。
「見てない」
俺は言った。
「……そうですか」
彼女はそれ以上訊かなかった。信じたのではない。今は訊かないと決めただけだ。そういう間の取り方だった。
「では、その欄は空のままにします」
白瀬は言った。
「空欄は消えません。埋まるまで残ります。……何年でも」
彼女はそこで一度、階段のほうへ目をやった。地上へ続く暗がりだ。
「久我さん。先日、私はあなたに一つ、お願いをしましたね」
「近づくな、だったか」
「文化財ですので、と申し上げました」
白瀬は言った。
「あれは業務上の注意です。個人的にはもう少し違う言い方をしたかった」
「してみろよ」
彼女は少し考えた。
「……あそこは、蓋です」
「蓋」
「蓋には触らないでください。中身が何かは私も知りません。知らないものを開けるのは私の仕事ではありませんし、あなたの仕事でもない」
「開けてないぞ」
「ええ。開けてはいませんね」
彼女はうなずいた。
「ただ、あなたは今夜、蓋の下から一度、返事をもらった側の顔をしています」
俺は答えなかった。
白い手袋の指が端末の縁に触れた。
「私は帳簿を信じています。久我さん。信じているというより、それしか持っていません。……あの島の下にあるものは、たぶん帳簿の外にあります。だから私には手が出せない」
彼女はそこで初めて、困っている人間の言い方をした。
「手の出せないものが、あなたの側についているのかもしれない。……私はそれを、どの欄にも書けません」
それから、いつもの声に戻った。
「では記録します」
彼女は端末を持ち直した。
「継続監査対象に追記します。久我ミナト。伊吹サエ。……それと、本日確認された帳外関係者、全員」
「名前は」
「わかっている者だけです。ほかは人数だけ残します」
俺はそのやり取りを遠くから聞いているような気がした。
視界の端がまた暗くなっていた。
「では失礼します」
白瀬は来たときと同じ速度で階段を昇っていった。
途中で一度だけ振り返った。
「明日の朝、私は、また同じ仕事をします。……あなたもたぶん、同じことをなさるんでしょうね」
それは質問ではなかった。
扉が閉まる音がした。




