13-11
夕方、俺は湾岸第七複合ビルの前に立っていた。
白い車両はもういない。査察は中止になった。対象だった管理人格が昨夜のうちに回収済みになったからだ。書式の上ではこのビルに管理人格は存在しない。存在しないものは査察できない。
ロビーには人がいた。昨夜のうちに入った連中が、まだ何人か残っている。住民がそのへんの椅子や毛布を出していた。
誰も大きな声を出していない。
毛布は数が足りていなかった。足りない分を若いオークが、自分のぶんから回している。誰かが鍋を出していた。中身は薄い汁だ。人数ぶんに薄めたのだろう。
昨夜このロビーへ入った連中の何人が、朝までに出ていったのかはわからない。何人が残るのかもわからない。
このビルはもう帳簿にない。管理人格も帳簿にない。だから今夜の食事も、明日の水道も、誰かが手で回すことになる。
ガンテツの区画と同じだ。
帳簿から外れるというのは、そういうことだった。守られない。かわりに閉じられもしない。
俺は中へ入らなかった。かわりに道を挟んだ向かいの歩道から、三階の窓を見上げた。
少し待った。
非常灯が点滅した。
赤、赤、緑。
おかえりなさい。
俺はそれを見ていた。
少し間を置いてもう一度、点滅した。
赤、緑、緑。
また来てください。
いつもの二つが、順番に来た。一つ目が終わってから、二つ目が来る。あの子の中ではたぶん、その順番に意味がある。
帰ってきたことを喜んで、それからまた来いと言う。
「言えばいいのに」
サエが横で言った。
「なにを」
「ただいま」
俺は灰桜を口から外した。
青い火はまだ点いている。震えは止まらない。これからも止まらない。
「まだ住人じゃない」
「なにそれ」
「住んでない奴がただいまは言わないだろう」
サエは呆れたような息を吐いた。
「変な男」
「そのうちな」
「あのさ」
サエが非常灯のほうを見たまま言った。
「私もまだ帳の外だから」
「知ってる」
「首輪もまだついてる」
「知ってる」
「消してないからこれからも呼ばれる。……次に呼ばれたとき、立ってられるかはわかんない」
俺は答えなかった。
この女は、慰めを求めていない。ただ、事実を卓の上に置いている。
「そのときは」
俺は言った。
「名前を呼ぶ」
「震える手で?」
「口は震えてない」
サエは鼻で少し笑った。
「屁理屈」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてない」
俺はそう言って、灰桜を消した。
*
帰り道、湾岸の外れのほうを一度だけ見た。
埋め立ての外れに小さな島がある。参道と鳥居だけが不自然に古い場所だ。文化財として恒温恒湿の箱の中で丁重に保存されている。
その島の常夜灯が一度だけ揺れた。
風はなかった。
水面の照り返しでも灯りの明滅でもない。ただ、一度だけ、揺れた。
俺は足を止めた。
サエは気づいていなかった。彼女は前を歩いていて、振り返らなかった。
足首のあたりがうっすらと濡れている気がした。ありもしない水だ。歩道は乾いている。
何が引かれたのかはわからない。いつ引かれたのかもわからない。昨夜かもしれないし、まだかもしれない。
わからないまま、こちらを見られている。
俺はそこから目を離して歩き出した。
*
都市はまだ向こうのものだ。
帳簿も、地図も、登録も全部あちら側の手にある。白帳整理は止まっていない。朝から動き出して、今も順番どおりに進んでいる。俺たちの名前は、継続監査対象の欄に並んで載っている。
何も変わらなかった。
ただ、昨夜のうちに何人かが通り抜けた。
名前も、行き先も俺は知らない。屋根を渡ったのか、地下を走ったのか、あのビルの中で毛布にくるまっているのかも、わからない。
数えられていない。どこの帳簿にも載っていない。
それでもいる。
帳の外で生きている。
*
俺はまだ死んだままだ。
名前は行政網の上で少しずつ薄れ始めている。震えは止まらない。煙草はもう効かない。
それでも朝になれば、また誰かが事務所の扉を叩く。
消された誰かを探している誰かが、扉の前に立つ。
俺はまだ、そこに立っている。
——受ける。




