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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第二話 記録は忘れない

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10/15

2-2

 朝の事務所は、ひどく寒かった。


 壊れかけた空調が、温風ではなく、どこかの排気をそのまま吐いているような空気を出している。窓の外では、湾岸(わんがん)区の高架道路を無人配送車が列を作って走っていた。道路下の広告ホログラムでは、エルフの歌手が新しい美容義体の宣伝をしている。


 俺は端末に表示された入金額を見ていた。七割。八洲都市開発(やしまとしかいはつ)は、約束通り七割だけ振り込んできた。


 回収不能、対象停止、霊素(れいそ)汚染により主要データ破損――そう報告したのは、俺自身だ。嘘をついたのは俺なのに、減額されると腹は立つ。人間は勝手な生き物だ。


「少ない」


 ソファで足を組んでいたサエが言った。


 彼女は濡れていない黒いコートを着ていた。雨も降っていないのに、なぜかいつも雨上がりの匂いがする。灰色の目は半分眠そうで、それでいて、部屋の出入り口と窓の外を一定の間隔で確かめている。休んでいるように見えて、休んでいない。飼い慣らされなかった獣の、休み方だった。テーブルの上には、彼女が手書きで置いた請求書があった。追加戦闘費、夜間稼働費、企業部隊対応費、精神的苦痛費。最後の項目だけ、額が妙に高い。


「お前の請求書が多いんだ」


「命を守った」


「誰の」


「あなたの」


「頼んでない」


「じゃあ次は見てる」


「それは困る」


「なら払って」


 サエは涼しい顔で言った。表情は変わらないが、声に少しだけ楽しそうな棘がある。


 俺は灰桜(はいざくら)のケースを開けた。シンセ煙草を一本取り出し、唇に挟む。フィルターを噛むと、先端の認証チップが青く点いた。朝の光の中で見ると、その青は少し病的に見える。


「朝から吸うの」


 サエが眉を寄せた。


「朝だから吸う」


「理屈になってない」


「なってる日もある」


「今日は?」


「なってない」


 俺が煙を吐く前に、端末が鳴った。表示名は、鳥居(とりい)診療所。


 怪異(かいい)市民や未登録存在を、できる範囲で診る非営利の夜間診療所だ。第七複合ビルから救出した河童(かっぱ)技師を運び込んだ先でもある。企業病院に連れていけば、彼は二度目の回収を受けただろう。


 俺は通話を開いた。


 画面に映ったのは、痩せた中年の女医だった。ヒューマン。白髪をうしろで無造作に束ね、目の下には夜勤何度分かの濃い(くま)がある。白衣は洗いすぎて色が抜け、襟元には神祇庁(じんぎちょう)の古い医療認可章。今はもう、正規の病院では見ない型式だ。指は消毒で荒れ、爪は短く切りそろえられていた。人を触るための手だった。背後では、電源を落とされた看護ドローンが壁際で沈黙している。


久我(くが)さん。朝からすみません』


「いい朝じゃないので問題ありません」


沼田(ぬまた)ゲンさんの件です』


 河童(かっぱ)技師の名前だ。


 俺は煙草を灰皿に置いた。火は消さない。青い光だけが、机の端で小さく震えている。


「容体が悪化しましたか」


『肉体は安定しています。ただ、都市行政網上では、今朝から死亡扱いになりました』


「死亡扱い」


『ええ。住民登録、怪異(かいい)市民登録、医療保険、銀行ID、交通権限、勤務履歴。全部が連動して停止しています』


 女医が画面を切り替えた。そこには、沼田(ぬまた)ゲンという一人の河童(かっぱ)が、この都市から順番に剥がされていく様子が映っていた。


 医療保険の欄には、赤い文字で資格喪失とある。銀行IDは凍結され、交通権限は無効化されていた。勤務先の下水インフラ第三管理社からは、弔慰金(ちょういきん)申請の自動通知が届いている。病室管理システムは、彼のベッドを患者用ではなく、遺体搬送待ちの区画として扱い始めていた。


 欄がひとつ埋まるたびに、沼田(ぬまた)ゲンという一人の河童(かっぱ)が、都市の側から一枚ずつ剥がされていく。保険。口座。通行権。勤め先。名前を呼ばれる資格。剥がすのに、悪意はいらない。連動した処理が、決められた順番で、静かに走るだけだ。


 その処理は、病室の空気まで変える。ベッド脇の名札が患者名ではなく搬送待ち番号に変わり、薬剤棚の認証が閉じ、看護ドローンは黒いタグを吐く。誰も手を下していないのに、部屋そのものが、そこにいる者を死体として扱い始める。


 生きている身体より、死んだという記録の方が強い。


 誰も、彼を撃っていない。刺してもいない。毒も盛っていない。ただ、いくつかの欄に、いくつかのチェックが入っただけだ。それだけで、一人の河童(かっぱ)が、都市から静かに引き算されていく。銃なら、撃った者がいる。だが、この殺し方には、引き金を引いた指が、どこにもない。誰も手を汚さないのに、人が消える。それが、いちばん怖かった。


 この街では、そういうことがある。いや、そういうふうに作られている。


 サエが足を下ろした。ソファの軋む音が、やけに大きく聞こえた。


『このままだと、こちらでは治療継続の正当性を示せません。死亡済みの患者を診療していることになりますから』


「生きてる患者を見ればいい」


『制度は、そういうふうにできていません』


「制度はいつも、そういうふうにできてない」


 女医は疲れた顔で頷いた。


『さらに問題があります。彼の端末から、予約送信の依頼文が届きました。送信時刻は昨夜。けれど、彼はずっと意識不明です』


「内容は」


 女医は画面の端を見た。


『“私が死亡扱いになったら、古椿(ふるつばき)を探してください。あの方なら、消された記録を覚えています”』


 そこで一度、女医は言葉を切った。


『続きがあります』


「読んでください」


『“記録を消された者は、自分が誰だったかを一人では証明できません”』


 意識を失う前の沼田(ぬまた)ゲンは、自分が消されると知っていた。知っていて、逃げるのではなく、証明してくれる相手の名を、端末に残した。壊れると分かっているものに、先に手を打つ。配管工の癖だった。


 部屋が少し静かになった。


 古椿(ふるつばき)。聞いたことのない名だった。


 だが、サエは反応した。ほんのわずかに、目が細くなる。


「知ってるのか」


 俺が訊くと、サエはすぐには答えなかった。窓の外を見て、少しだけ肩をすくめる。


「噂だけ」


「どんな」


「古いサーバ室に住んでるじいさん。消されたログを覚えてるとか、削除済みの記録を吐くとか、そういう話」


「人間か」


「さあ。妖怪か、付喪神(つくもがみ)か、ただの壊れた管理者か。会ったことはない」


 会ったことはない。そのわりに、声が少し硬かった。


久我(くが)さん』


 女医が言った。


沼田(ぬまた)さんは、生きています。ですが、記録上はもう存在しません。このままでは、病室にいる“誰か”になります』


「わかりました。動きます」


『お願いします。うちでは、長くは隠せません』


 通話が切れた。


 俺は灰桜(はいざくら)を指に挟み、まだ吸っていない煙を吐いた。青白い霧が、机の上で薄く広がる。


「死んでないのに、死んだことにされる」


 サエが呟いた。


 俺は彼女を見た。だが、サエは俺を見ていない。窓の外の広告ホログラムを見ている。そこでは、笑顔のエルフが「あなたらしさを登録しましょう」と言っていた。


 あなたらしさを登録しましょう。沼田(ぬまた)ゲンは、その広告の裏側にいた。表で笑うエルフと、裏で薄れていく河童(かっぱ)は、同じ一枚の紙の、表と裏だ。


「気分が悪いな」


 俺が言うと、サエは口元だけで笑った。


「殺すより手が込んでる」


 サエの声には、めずらしく、皮肉の棘がなかった。


「殺せば、死体が残る。死体は、誰かが見つける。見つければ、事件になる。でも、記録だけ消せば、死体すら出ない。事件にも、ならない」


「経験みたいな言い方だな」


「経験」


 彼女はそれだけ言って、窓の外の広告へ視線を戻した。


「企業らしい」


「嫌い」


「企業が?」


「記録で首を絞めるやつ全部」


 彼女の声は静かだった。だが、その静かさの底に、冷たいものが沈んでいた。


 彼女は立ち上がり、コートの袖を払った。袖口の内側で、薄い金属音が鳴る。骨格補強(こっかくほきょう)の駆動音だ。


古椿(ふるつばき)を探すのか」


「ああ」


「紹介料、高いかも」


「誰に聞けばいい」


「狐」


 俺は短く息を吐いた。行き先の見当がついたからだ。


「また胡散臭(うさんくさ)いところへ行くのか」


帳外屋(ちょうがいや)で、胡散臭(うさんくさ)くない知り合いがいるの?」


 俺は答えを探した。心当たりを一人ずつ潰していって、すぐにやめた。一人もいない。


 ただ、胡散臭い相手ほど、帳簿の外に落ちた名前をよく拾う。きれいな窓口では、こういう仕事は受け付けない。


 まともな知り合いは、企業にいた頃に置いてきた。あの頃の同僚は、今も向こう側にいる。俺が裏口や報告書の嘘を覚えているように、彼らも俺のことを、都合よく覚えている。あの夜、八洲都市開発(やしまとしかいはつ)の男が「昔の同僚に勧められた」と言ったのを、俺はまだ、忘れていなかった。


 サエは俺の沈黙を、肯定と受け取ったらしい。満足そうにドアへ向かった。歩き方はいつも通りだ。軽く、無駄がない。


 だが、ドアノブに手をかける直前、彼女は一瞬だけ立ち止まった。


「ミナト」


「何だ」


「死んだことにされた人間は、戻れると思う?」


 軽い訊き方だった。だが、軽すぎた。彼女がこの訊き方をするのは、答えを本気で知りたいときだ。


 俺は答えを探した。


 制度上なら、戻れる可能性はある。ログが残っていて、生体認証が生きていて、裁判所か神祇庁(じんぎちょう)か企業法務が認めれば。


 けれど、サエが訊いているのは、たぶんそういうことではない。


「戻す」


 俺は言った。


 サエは振り返らなかった。


「質問の答えになってない」


帳外屋(ちょうがいや)だからな」


 彼女はドアを開けた。その背中は、いつもより少しだけ細く見えた。

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