第5話 殺戮卿
その日はよく晴れた春の日だった。
ユステルはその日も自分に与えられた施術室の中をのんびりと清め、来るはずのない客を待っていた。
(春だなあ……)
窓から差し込む陽光は暖かく、庭先の若葉は風に揺れている。
自分の部屋からは、もはや見飽きた景色……神殿を囲う塀と、その向こうにかすかに見える誰かの邸、そして遮るもののない青空がそこにある。
ユステルはそこまで椅子を運ぶと、どっかりと腰を下ろした後、姿勢を正して手を重ね、目を閉じて祈り始める。
やることがない時、ユステルはいつもそうして神に祈りを捧げていた。
自分が何をして慈悲の力を授かり、誰を癒して、これからどうしたいのか。
頭の中に浮かぶのは、血を流して倒れた仲間を癒したあの時の光。そして、老体をおして使命のために旅に出た老人の後ろ姿だ。
傷を癒し、病を拭い去り、人々に安寧をもたらすこと。
ユステルは何度も祈り、何度も自分に言い聞かせている。
そうしなければ、おまえはただの薬箱だと、金持ちの靴を舐めて生活するクズだと卑下する自分が、自分自身を食い破って出てきそうだった。
やることがないことが、逆にユステルの心を救っていた。
きっと今日も仕事はないはず。
そう考えていたユステルの耳には小鳥たちのさえずりが心地よく響いていたが、しばらくして何やら騒がしいやり取りが聞こえてきた。
声色は強く、何かを言い争っているようだ。
(うるさいな……何を騒いでいるんだ)
祈りを中断し、施術室の扉を開けて廊下へ出ると、他の治癒室からも神官たちが顔を出していた。皆、玄関の方を気にしている。
ユステルはしばらく耳を澄ませた。
どうやら客らしい。
だが、自分には関係ないだろうと思った。
(どうせどこかの貴族が文句を言いに来てるんだろう。
関わり合いになっても良いことはなさそうだ)
そう考えて、部屋へ戻ろうとした時だった。
再び怒鳴り声が響く。
「だから待てと言われても待てんのだ!」
あまりに大きく、切羽詰まった声だった。そのまま無視するには、客の騒ぎぶりは尋常ではない。
(無いと思っていたが、急なけが人だろうか?
いつまでも入口で騒いでいて施術室まで来ないのは、金が無い賤民だから断られている、とか……。
……確かめるぐらいなら、してもいいか)
ユステルは声のするほうへ足を向けた。
玄関ホールへ近づくと、そこには見たこともないような大男たちが並んでいた。
ひとりひとりが扉のように大きく、しかも全員が鎧姿だった。
黒いショートマントを左肩に羽織っていて、それが所狭しと並んでいるので、まるで旗を掲げた城壁のようだ。少なくともスラムや神殿で、あんなに体の大きくて強そうな男たちは見たことがない。
そんな彼らの前には神官長が立っている。
「ですから、今はどの治癒師も空いておりません」
神官長は愛想笑いを浮かべながらも、勢いに押されて体がうっすらと後ろに反っている。
「施術は予約優先です。客間へご案内しますので――」
「そんな時間はない!」
大男のひとりが怒鳴る。神官長の反りが強まる。
「我らが主の傷は深い!
今すぐ治癒師を呼んでくれ!」
ひときわ強く訴えるその声に押されるようにして、いよいよ神官長が一歩後退り、困った様子で視線を彷徨わせて……そこでふと、目が合った。
嫌な予感がした。
「ユステル! こちらへ来なさい!」
自分の名前が呼ばれた瞬間、周囲の神官たちは一斉に顔を逸らし、自分の持ち場へと戻っていく。ほんの少しの間に、あれだけ人の顔が並んでいた廊下は普段よりも厳かな静けさに満たされた。
誰も助けようとしてはくれない。
ユステルは自分から面倒事に首をつっこんでしまった事を後悔しつつ、ため息を押し殺して前へ出た。
「この者は瀕死の兵を死の淵から救った実績があります。ご希望の条件には合うでしょう。
ただし、その能力には少々むらがありましてな」
神官長はいつもの口上を話し出すが、途中、意味ありげに笑って続けた。
「失敗しても苦情は受け付けませんよ」
「構わん!」
男たちは即答する。
「頼む!」
男たちはユステルに向かって直立すると、左手の拳を腰だめにして深く頭を下げた。
王国の中央に勤める騎士や兵士がする、目上の者への跪拝や、上位者に懇願する時の作法ではなく、見たことのない作法だ。
ユステルは彼らの勢いに押されて思わず後ずさる。
その時、人垣の向こうに担架が見えた。
同じような鎧の男たちに担がれた台の上で、厚い布に包まれた巨大な何かが、赤黒く染まっている布地を押し上げて動いている。
傷ついているが、生きている。
ユステルは思わず息を呑み、拳を握った。救いを求めている者がいるならば、自分の力を使うべきだと、救うべきだと心が震えた。
「こちらへ」
慌てて施術室へ案内しようと、棟の奥へと進む。
男たちは本当に受けてもらえると思っていなかったのか、一瞬呆けたように動きを止めたが、すぐにわらわらと動き出し、担架のまわりに集まって傷ついた何者かを運び出した。
その時。
神官長が袖を掴んだ。
「ユステル」
妙に静かな声。
「今回に限り、治癒は失敗してもよい」
「……は?」
神官長は男たちへ……いや、その向こうにあるだろう担架に視線を向けて。
「殺戮卿だ」
吐き捨てるように言った。
「己の傷を返り血で洗う、おぞましい戦争屋だ。
この男が我が国に必要だと思うならば癒すがいい」
それだけ言うと神官長は離れ、持ち場へと戻っていく。
(殺戮卿……この担架の男が)
ユステルは戦慄した。
殺戮卿。
その名は聞いたことがある。
辺境で戦い続けている伯爵位の男で、戦いの中に常に身を置く戦闘狂。
最初、隣国の侵攻を自領の中だけで抑えたその手腕こそ称えられていたらしいが、戦線が広がった今、彼のまわりには恐るべき噂がまとわりつくようになった。
曰く、敵兵を何百人と斬った。曰く、人の血で浴場を作った。曰く、敵味方を問わず死体の山を築いた。
今も新たな屍山血河を築くために、領地を走り回って敵を探しているという噂すらあった。
ユステルは戦争が嫌いだ。
スラムができた原因も戦争だ。スラムで治癒を施した人々が苦しんでいる理由も、戦争だ。彼らが故郷へ帰れなくなったのも、その故郷がなくなったのも、戦争のせいだ。
そして、それに関わる将兵も皆嫌いだ。
これまでに治癒を施した将兵たちは皆身分ある者で、彼らは軒並み「これでもっと敵を殺せる」と喜んだ。
ユステルは王国の将兵たちが、自分たちの暮らしていたスラムを作ったのだと、相手の国にスラムを作っているかもしれないと、ぼんやりと思っていた。
憎しみとまでは行かなくても、良い感情を抱けるはずがない。
「治癒師殿?」
「……いえ、失礼しました。ご案内いたします。」
この男もその手合か。
そう思うと、さっきまで担架の男を救おうと燃え上がっていた心が急激に冷えていく。
それでも、案内するよう言われた以上はやるしかない。
客たちに急かされながら、ユステルは自分の施術室へと向かった。
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