第32話 払暁
アンジェロは静かになった寝室の影の中で、気配だけで応えた。
自分に意識が向けられたのを感じながら、ユステルは独りごちるようにして口を開く。
「私は、何をしたかったんでしょうか」
アンジェロは何も言わない。
ぼんやりと眺めている天井は、綺麗に削られた板材が並んでいて、窓から入ってくる陽の光が床に反射し、ほんのりと明るく照らされている。
その天井が自分に向かってずり落ちてくる錯覚を覚えながら、ユステルは続けた。
「さっき、三人で話したことは……本音でした。
私はアンジェロの期待に応えたいと思っていましたし、多くの傷病者を癒す今回の旅は好機だとすら思いました。
……そして私は、これまで私を蔑んできた方々を見返してやりたいとも、思っていました」
思い返してみれば、何と浅ましい気持ちだろう。
神に与えられた力を届けたい、という思いの裏側で、自分のちからを証明したい、見返してやりたい、という欲望まで満たそうとしていた。
その行為は、自分が忌み嫌っていた貴族と何が違うというのか。
「イウフィフィ伯爵に、力試しをしたいのか、と言われた時は、内心、竦み上がっていました。
私にそういう気持ちが無かったとは言えませんでしたから。
そして、まんまとそれに乗った結果、先に私の体力が限界を迎えてしまいました」
不意に天井がぼやけた。
ユステルは話しながら泣いていた。
「情けないですよね。
あんな大口を叩いておきながら、満足に治癒もできず、トリストさん達にも街の皆様にも迷惑をかけて、こうして転がっていることしかできない。
もう一度立ち上がったとしても、治癒はきっと失敗します。
トリストさんもラオベルトさんも慰めてくれましたけど、その事実は変わらない」
涙は止まらず、むしろ堰を切ったように溢れ始めた。
「でも、私が一番許せないのはね、アンジェロ。
私のやりたい事の理由に、貴方を使ってしまった事なんです」
言葉にすれば、もう止まらなかった。
「勇猛な戦士であり、憧れの貴族であり、その死を経ても共にある大切な友人を、私の言い訳に使った事が、自分で許せないんです。
貴族たちから欲望の目に晒されて嫌悪していた私が、私利私欲のために、ちからを失った亡者の志を利用した事が許せないんです。
私がそれをしたら、貴方の傍にいる理由が、それになってしまう」
ユステルは自分の腕で目を覆った。
目を閉じても涙は止まらなかった。
「私は、あなたの友人を名乗る資格がない……」
ユステルは声を荒げる事もなく、静かに泣いた。
窓から入る陽光はぽかぽかと温かで、聞こえてくる街の人々の声は活気に溢れている。
この暗い一室は、そんな世界から切り離されているような気がした。
ただ、恥ずかしくて、申し訳なかった。
(勝手に縁を切られては困るな)
アンジェロは応えた。
(俺の期待は、きっとお前にとって負担だったのだろう。
それは俺が考えるより、ずっと大きなものだったに違いない)
アンジェロの静かな言葉を聞いて、ユステルは首を横に振った。
「そんな事はありません。
アンジェロ、貴方に言われた言葉は、私の希望でした」
(ああ。
俺にとっても、お前の存在は希望だった)
「…………」
(だが、俺や、周りが教え導く前に、俺は死んだ。
そして死んだ俺は亡霊となって、お前の慈悲に縋った。
そのことが、お前への期待を怪物に育て上げたのだと思う)
「……怪物」
(そうだ。
今、お前を食い潰そうとしている、重圧という怪物だ)
するりと、アンジェロはユステルの傍に姿を現した。
日光に当たった亡霊の体が朧気に揺れて、蒼い炎を上げながら崩れ始める。
ユステルは慌てて寝台から出て、窓の前に立って日光を遮った。
「アンジェロ!
陽の光のある場所では痛むって……!」
「ああ。
だがお前の中に潜む怪物を倒すためには、こっちのほうがいい」
アンジェロはそのまま、ユステルに近づくと、膝をついて礼を取った。
亡霊として現れたあの日にやった、罪人の作法だった。
「俺は、家族への接し方を間違えていたことを知った。
理屈と利益ばかりを先に語るばかりで、相手がどう思うかを十分に考えていなかった」
「いいからアンジェロ、早く影へ……」
「そして今日、友への接し方を間違えていたことを知った。
俺は部下に期待をかけるのと同じように、お前にも期待をかけた。
それが、部下ではないものにとって、どれほど重いものになるかを考えていなかったのだ」
「……!」
アンジェロは、ぐっと体を小さく縮めた。
陽光を浴びる背中から上がる蒼炎が大きくなる。
「俺が死んだ後、部下たちは俺の思うように動いてくれた。
そう教育し、対価を用意して、領のために働くよう育てたからだ。
だが、それは友に対して行う行為ではなかった。
お前は俺の部下ではないからだ。
お前が動いてくれているのは、領のためでもなく、対価を得るためでもなく、俺のためだった」
アンジェロは顔をあげた。
陽光の中に見えるその表情は、ユステルと同じく、悲しみに満ちていた。
己を恥じる顔だった。
「友として相応しくないのはお前ではない。
お前の良心に縋り、かけた言葉の意味も考えず、結果としてお前を酷く傷つけてしまった、俺だ」
ユステルは口をつぐみ、アンジェロを見た。
さっきと同じように涙が流れたが、さっきとは違う涙だった。
アンジェロは再び身を伏せて、小さな声で言った。
「俺は、お前の友であることを望んでもいいのだろうか?」
「当たり前です!」
ユステルは間髪入れずに応えた。
「もしかしたら貴方の言う通り、期待は重圧になっていたかもしれない。
ですが例えそうだとしても、貴方に与えられた希望が陰るわけじゃない。
私は……私は、あなたの友でありたい」
アンジェロは黙って顔をあげた。
床に落ちる涙を見て、止まる様子のない涙を追いかけ、再びユステルの顔を見上げてから、笑った。
「俺も、同じ気持ちだ」
アンジェロは影の中へと戻った。
ユステルは窓に寄りかかり、全身の力を抜いた。
そして床に座り込み、眼の前に広がる寝室の影に向かって、言った。
「アンジェロって、本当に、ズルいですよね」
(大人の男はズルいものなのさ)
すっと、涙がひっこんだ。
アンジェロのこの、悪いとも思っていなさそうな物言いが、今はちょっとだけ癪に障った。
(俺も、お前と友でありたい。
それを知っていてくれれば、それでいい)
そして、真摯な声でそんな事を宣うものだから、ユステルは振り上げた拳の下ろしどころを見失った。
気がつけば、この男の期待に応えなければという重圧が、輝きを失わないまま軽くなっていた。
やはりアンジェロはズルかった。
(まあ、俺達の友情の事はひとまず横に置いておいてだな。
もう一匹の怪物を倒す方法を教えてやろう)
「しれっと流さないで下さいよ。
もう一匹の怪物とは?」
(欠損を治せなかった、という事実だ)
ユステルは、続けて話そうとした声が喉に詰まるのを感じた。
それは、誰に触れられなくとも痛み続ける、大きな傷だ。
心が再び、暗い闇に覆われて、膿んでいく。
(これについては、倒し方は簡単だ)
しかし、アンジェロは事もなげに言った。
(ユステル、俺はラオベルトに負けた時、実は物凄く悔しかった。
その後、俺はどうしたと思う?)
「えっ?
ええと……鍛え直した?」
(そうだ。
つまり、俺は強くなろうとしたのだ)
「……はあ、それで……?」
(お前も強くなればいい。
治癒師として、神官として)
ユステルは目を瞬いた。
そのような思考がそもそも頭の片隅にも無かったので、理解することが出来なかった。
(お前が失敗と感じた理由は何だ?)
「それは……完全な肉体に戻そうとして、それが上手くいかなくて……」
(ああ、だがそれはお前の基準での失敗だ。
他のものから見たお前の治癒は、非常に強力で、成功している。
何がお前に失敗だと感じさせた?)
アンジェロの問いかけに、何度目かもわからない、あの男の悲しげな表情が思い浮かんだ。
胸が苦しくなり、息が荒くなる。
「駄目だったかと……言わせてしまったことです」
(そうか。
なら、それで終わりか?)
「え?」
(治癒をかけて、傷が治って、欠損は治らなくて、それで終わりか?
お前のいう傷病者への救いというのは、その一瞬で終わりなのか?)
ユステルは、はっと視界が開ける思いがした。
そうだ。
命を救った後、その生は続くのだ。
(お前が失敗したというなら、それでもいい。
なら、その後、どうすればいいかを考えるべきではないのか?)
「失敗した、後……」
(それを考えられるのが、善き治癒師であり、善き神官なのではないかな)
「…………」
話を聞いて、ユステルは神官長のことを思い出していた。
あのひとは自分が教育した治癒師たちが、貴族と契約して旅立っていった後の事まで考えていた。
そして、より良い未来を選べるように助力していた。
神殿を出る時、ユステルはあのひとに敬意を示したのではなかったか。
その神官としての懐の深さに胸を打たれたのではなかったか。
「私って、本当に未熟ですね」
(それが判れば十分だ。
何が未熟かを自覚しないと、そもそも成長出来ないからな)
「アンジェロも当時は未熟だったってことですか」
(…………そうだ)
「恥ずかしいなら話さなければ良かったのに」
(今は後悔している)
話しながら、ユステルは自分が笑っていることに気づいた。
気づけば心も軽くなっていた。
こうしてアンジェロに軽口を叩くのは何日ぶりだろうか。
「まあ……そういう事なら、私も前向きに考えましょう」
(それがいい。
お前があんまりジメジメしていると、俺にもカビだかキノコだかが生えてきそうだ)
「そんなにジメジメしてませんよ、私」
(ああ、今日からはその心配はしなくてよさそうだな)
話しているうちに、ふっと眠気が襲ってきた。
体が重たいのは、きっと疲労が抜けきっていないからだろう。
そう自覚できるくらいには、ユステルは冷静さを取り戻していた。
ユステルはぐったりと寝台へ戻りながら、影に向かって語る。
「そういえば、アンジェロは負けて悔しかったと言ってましたよね」
(ああ、そう言った)
「その後で特訓して、どのくらい強くなったんですか?」
(ラオベルトと再戦したわけではないので、自分ではよくわからんのだがな。
トリストひとりと良い勝負だったのが、トリストを含む騎士三人を相手に組み討ちをしても勝てる程度には鍛え直したぞ)
布をかぶり、体をぐっと伸ばすと、体中の節々がばりばりと音を立てた。
心地よい痛みのあとは、じわっと温かな感触が体を駆け巡っていく。
「治癒を失敗したと思った時、すごく悔しかったんです」
(そうか)
「私も、次に治癒しに来る時は、欠損が治って三倍元気になるくらいには上達していたいですね」
(では、使徒ユステルと呼ぶ練習をしておかないとな)
「……やっぱり今の無しで。
恐れ多すぎます」
(夢は大きいほうがいい。
お前が諦めない限り、可能性はいくらでもある)
とりとめのない話をしているうちに、意識はどんどん暗闇の中へ落ちていく。
(おやすみ、ユステル)
遠く、アンジェロの声が聞こえた気がしたが、次の瞬間には深い眠りの中へと落ちていた。
ユステルは翌日、日の出を迎えるまで、寝室から出てくる事はなかった。
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