第三話
スラムから抜け、強固な壁の内側へ入り、整然と美しい邸の並ぶ街の中に建てられた神殿で始まった暮らしは、ユステルが思い描いていたものとはずいぶん違っていた。
癒しの御業を使える者は、最初から助祭の立場と個室を与えられるらしく、幼いユステルは突然、大人の振る舞いを求められるようになり、困惑した。
朝は鐘の音で目を覚まし、祈りを捧げ、夜も眠る前に祈りを捧げる。
言葉を学び、文字を学び、歴史を学び、戒律を学ぶ。
食事は日に三度与えられ、石造りの丈夫な建物の中で日々を過ごす。
神殿は、ユステルに大人を求めたが、同時に大人になるために必要なものも与えた。
温もりのない孤独な夜に思わず泣いていると、眠るまでの間だけ、といって世話役がそばにいてくれたことがあった。
浴場に行ったはいいが、体を洗うのが生まれて初めてで、どうすればいいかわからずに先輩の治癒師たちに相談し、笑われたこともあった。
その全てが清潔で、温かで、スラムで暮らしていた頃に比べると夢のような環境だったと言っていい。
実際、最初のうちのユステルは感謝していた。
これならもっと力を磨ける。
もっと多くの人を助けられる。
そう信じていた。
転機は、神殿へ来て一年ほど経った頃だった。
教育を受けたユステルは、少なくとも言葉遣いは丁寧になり、見苦しくない振る舞いと、治癒の力を振るう時に唱える祝詞を諳んじることは出来るようになっていた。
世話役からは「人前に出られるようになってから治癒の腕を振るってもらう」と言われており、ユステルは日々祈りを深め、自分がこれまで救った人たちや、これから救う誰かのことを思いながら過ごしていた。
ある日、世話役から神官長となった男に呼び出されたユステルは、身なりの良い老人の前へ案内された。
老人の指には大きな宝石のはまった指輪がいくつも輝いており、着ている衣服は見たこともない艶を放っている。
その顔色は良く、椅子に座っている姿勢も凛としていて、顔の印象から受ける年齢よりもずっと若々しい。
神官長が口を開く。
「この方は教会に多くの寄進をくださっている、信心深い信徒の方です。
ユステル、あなたの治癒の力をぜひ頼りたいとおおせです。
この方に治癒を施しなさい」
ユステルは頷き、老人を見た。
老人は無表情にユステルの事を見ている。
視線に気圧されながらも、老人の体を上から下まで視線でなぞり、傷や病の気配を探し……しばらくそうしたあと、首をかしげて、ユステルは言った。
「どこを治せばいいのですか?」
その場の空気が固まった。
老人の眉がぴくりと動く。
何かを間違えただろうかと立ちすくむユステルを見て、神官長は咳払いを挟み、再度ユステルに指示を出す。
「この方の奥底にたまった、疲労や衰えを癒やすのです」
「でも、怪我や病気をおもちの方には見えません」
「もしかして不安を感じているのですか?
大丈夫、習った通りに祝詞を唱えて、治癒の力を解放するだけでいいのです。
さあ、いいからやりなさい」
座学において、教育係の神官たちは、祝詞を唱えて神に祈れば治癒のちからは発動する、とユステルに教えた。
しかし、ユステルはスラムで治癒をしていた時、祈りを口にすることはなかった。
神殿にきてからは「正しい治癒の使い方」として祝詞を教えられ、それが正しいやり方なのだと思って記憶していたが、実践する機会はこれまでなかった。
とにかく言われた通りにしなければと、ユステルは祈りの言葉を唱える。
「生を慶び、命を祝し、老いを諾い、死を諒し、あまねく旅路の助けとなるよう」
子供でも覚えられる程度の、生命あることをよろこぶ短い祝詞。
ユステルは覚えた通りにそれを唱え……部屋の中を静寂が支配した。
老人の冷たい視線と、怒りに歪む神官長の視線が、困惑と焦りで言葉をなくしたユステルに無遠慮に注がれた。
以前に治癒を使っていた時の、胸の奥に感じていた熱がない。
神の慈悲を確信できる、温かなものが体に湧いてこない。
何度か試したが、ユステルは治癒を発動することができず、結局、その日は別の治癒師が呼ばれた。
帰り際、老人はユステルを見て鼻を鳴らした。
「期待外れだな」
その一言だけを残して老人は去り、神官長と教育係からは激しい叱責を浴びた。
ユステルは、治癒の力に老化を抑える効果があることを知った。
神殿で多額の献金を行う者たちは、その効果をこそ求めて来ている、ということも。
ユステルは自分に求められている役割を理解した。
だが、傷ついた者たちや、病に苦しむ者たちを救った日々をよすがにし、神の慈悲を広げていきたいと思っているユステルにとって、それは素直には受け入れられない事実だった。
それでも、似たようなことが何度も起きた。
強い香の匂いをさせている裕福な商人。聖印の施された豊かな布を身にまとう高位の神官。上等な衣服ときらびやかな貴金属で身を固めた貴族。
皆がユステルの治癒を求めた。
だが、何度試しても治癒の光は湧き出てこない。
周りの神官たちの困惑が、苛立ちや侮りに育つのに、それほど時間はかからなかった。
「ユステル、なぜ治癒のちからを使わない?」
「使おうとしているんです。でも、なぜか使えないんです」
「他の神官たちは祝詞を唱えることで問題なく治癒できている。
使えないはずがないのだがな」
「ですが……」
「時々いるんだよ、教会が信じられないとか、待遇を良くしてほしいとかで、治癒のちからを出し渋りするやつ。
お前もそのくちか? 一度も役に立った事もないおちこぼれのくせに、ずいぶんと偉くなったもんだ」
こうした嫌味や悪口を聞かされたことは一度や二度ではない。
しかし真実、ユステル自身にも理由はわからなかった。
眼の前の人物を癒さなくてはならないと、頭の中では思っている。
朝晩の祈りも欠かしたことはないし、神への敬愛は今も自分の心のなかで輝いている。
なのに、どんなに治癒術を使おうと思っても、何度祈りを口にしても、何も起きないのだ。
ある時などは、神官長に呼び出され、苛立ちのままに言われた。
「そんなにスラムに帰りたいのか?
あの暗く汚い場所へ戻り、泥水をすする生活に戻りたいのか?」
ユステルは首を横に振った。
物心ついた時から長い間過ごした場所だ。別れはしたけど、今も大切に思っている仲間たちが暮らしている場所だ。そこに今すぐ放り出されても生きていける自信はあった。
だが、今ではない。
仲間たちに「力を磨いてくる」「いつか皆を助ける」と約束したのに、何も成し遂げていないままに彼らの元に戻るわけにはいかなかった。
ユステルにも幼いなりの矜持があった。
神官長は頷いたが、ユステルがただスラムを嫌がっているだけだと思い、それからも事あるごとにそれを口にした。
ユステルは冷たい態度で虐げられる日々を送りながらも、自分のちからの謎に思いを馳せていた。
(わからない。なぜあの時は力が使えたんだろう? 今はなんで使えなくなってしまった?
祝詞を唱えても何も感じない。あの時に全部の力を使い切ってしまったのかな……)
しかし、どれだけ考えても、幼いユステルには理解できなかった。
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