第二話
ユステルが生まれ育ったのは、王都の外れに広がる大きなスラム街だった。
もともとは倉庫街だった場所らしいが、自国と隣国の戦争が長引くにつれ、行き場を失った者たちが流れ込み、いつしか粗末な掘っ立て小屋が密集する迷路のような街になっていた。
そこで暮らす者の多くは、戦争で家族を失った孤児や難民たちだった。
ユステルもその一人である。
どこから来たのか、親の顔はどうだったか、家族は何を生業としていたか……もう覚えていない。
覚えているのは、腹が減るということと、寒いということ。そして、自分と同じような子供たちが寄り集まって生きていたということだけだった。
朝になれば荷運びの仕事を探した。仕事がなければゴミ捨て場を漁った。時には危ない運び物を押しつけられることもあったし、裏路地で大人たちの喧嘩に巻き込まれることもあった。
それでも彼らは生きていた。
神殿の修道士が持ってくる炊き出しの薄い粥をすすり、互いに食べ物を分け合い、怪我をした仲間がいれば肩を貸した。
誰かが倒れれば皆で助ける。
そうしなければ生き残れなかった。
「おいユス、今日は当たりだぞ」
ある日、年上の少年が得意げに掲げたのは、小さな赤い果物だった。少し傷んでいたが、それでも甘い香りがする。
子供たちは歓声を上げた。
「すげえ!」
「どこで拾ったんだよ!」
「拾ってねえよ。働いた報酬だ。ちびどもにも声をかけてくれ」
得意げな言葉に笑いが起きる。
果物は小さく切り分けられ、皆で分けることになった。
汚れて傷だらけの小さな手のなかで、刃がかけて切れにくそうなナイフが動き、果汁がわずかに滴り落ちる。
その光景が、これから口にする果物への期待をくすぐり、気分を高揚させた。
子供たちの数は多かった。そして、傷んでいない綺麗なところは、働く事もできないくらい年少の子供たちに優先的に配られた。
ユステルの手元にきたのは、指でつまめる程度の、ほんの一口だ。
だが、ユステルにはそれが何よりのご馳走に思えた。
皆が笑っていたからだ。幸せを感じていたからだ。明日も頑張ろうと希望を抱いていたからだ。
だからこそ思う。
もっと力があればいいのに、と。
皆を守れる力が、皆の希望になれる力が……そんなものがあればいいのに、と。
幼いながらに、ユステルはともに生きる子供たちに強い絆を抱いていたのだ。
ユステルの願いが形になったその日は、空をひっくり返したような酷い雨だった。
原因など覚えていない。
食料だったか、仕事だったか、後ろ暗い何かの精算か……生きることに必死な者同士の争いなど、だいたいそんなものだ。
気づけば石が飛び、棒が振るわれ、仲間たちが血を流して倒れていた。
「しっかりしろ! おい、おい!」
「目を開けろ!」
「備蓄は使ってもいい、火を絶やすな!」
誰かが誰かに呼びかけても返事はない。
誰かが誰かの肩を揺すっても動かない。
明かりの少ない、暗いボロ屋の中で、血の感触と臭いだけが強く大きくなっていく。
焦燥と絶望が満ち満ちたその場で、幼かったユステルは何もできなかった。
小さな手で傷口を抑えても、湧き出てくる血は止まらない。
「どうしたら……」
震える声が漏れた。
「どうしたら助けられる?」
何もないこの場所で、どうやったら彼らを救う事ができるのかも、わからない。
頼りになる年長者たちは倒れ、頼りにすべき大人たちは自分たちに見向きもせず、薬を買う金も、治癒師を呼ぶ伝手も無い。
ユステルはどうしようもなく無力だった。
だから、祈った。
「神様……もしいるんなら、みんなを助けてください」
炊き出しをしてくれる修道士は何度も目にしている。
仕事として割り切っているものも、子供たちに情けをかけてくれるものもいた。
粗食とはいえ、一日一度の食事には大いに助けられていたし、ありがたいと思っていたが、ただそれだけだ。
粥をすすっている間に聞かされる、大戦争の最中に現れ、多くの人々を救って神へ昇った使徒の話は、覚えてしまうくらいには何度も聞いていたが、神の存在を本気で信じたことはなかった。
その神に。
「おれ、この人たちを助けたいんです」
幼い心を極限まで振り絞って、ユステルは祈った。
「この人たちを助けられる力をください」
ユステルの心が燃え上がった。
そう感じた次の瞬間には、黄金に輝く柔らかな光がユステルの体中から溢れ出し、汚れた部屋の中を照らし出した。
そして、子供たちは見た。
ユステルが触れている傷がたちどころに塞がったところを。触れていない傷も、みるみるうちに治癒していくところを。青ざめて死人のようだった顔色に朱が差したところを。
子供たちは息を呑んだ。
傷つき倒れていたはずの仲間たちが、今は苦しげな息遣いなどなく、安らかな寝息を立てている。
血に汚れた服をめくり、傷口だったところをまさぐった一人が言った。
「……治ってる」
奇跡だ。
誰もがそう思ったが、何よりもユステル自身がそう思った。
そして、見届けた全員がその奇跡に感謝した。
ユステルは泣いた。安堵に泣いた。
救いたいと思った者を救えたことに、今この時に彼らを救ったその力に、それを与えた神に感謝した。
だから、その場で誓った。
(おれたちが神の慈悲で救われたなら、今度はその力でおれが人を救おう。
おれたちが救われたように、誰かを救おう。
この悲しみを、この苦しみを、少しでもここから減らそう)
ユステルはその日から、惜しむことなくその力を振るった。
スラムに住む者は、そのほとんどが怪我や病が原因で、極貧の生活を強いられているようだった。
耐えられずに死ぬ者よりも、長引く戦争で傷ついた者たちが、極貧に堕ちて病に侵された者たちが、スラムにはひしめいていた。
ユステルは仲間たちにだけでなく、求める者すべてにその力を振るった。
戦場帰りの傷ついた者たちは故郷に帰れると喜び、病を得て死を待っていた者たちは夜に怯える事がなくなった。
それまで敵対していた勢力の者たちも、ユステルの治癒を求め、武器を捨てた。
彼らの笑顔に、明るくなったスラムの一角に、ユステルは希望を見た。
これからも、自分が受けた神の慈悲で、体に受けた傷を、いつしか生じた病を、苦しむ人たちから消し去ろう。
ユステルは純粋な幼心に輝く指針を抱いた。
賤民の街で治癒の力を振るう者の噂は、あっという間に広まった。
それはスラムだけでなく、王都の中、権力を持つ者たちの間にも。
治癒の力を得てほんの数日。ユステルの元に白い法衣をまとった壮年の男が現れた。
「君がユステルだね」
穏やかな声だった。
神官は奇跡を起こした話を聞いていると言い、ユステルに語りかけた。
「神の御業を使う者は、我々ブリオノール教会で保護することになっている。
君には力がある。その力を磨けば、もっと多くの人を救えるようになるだろう。
どうかな、私と一緒に神殿へ来ないかい?」
ユステルは戸惑った。
神官の言うことに従えば、この地を離れる事になる。
そもそも仲間たちを救おうとして神から頂いた力なのに、仲間たちから離れていいのか、これからどうやって彼らを助けたら良いのか、わからない。
ユステルは断ろうとしたが、しかし、周囲の反応は違った。
「行けよ」
最初に背中を押したのは、あの日、ユステルが必死に傷口をおさえていた、年上の少年だった。
「神殿なら飯に困らねえぞ?」
「そうだそうだ」
「偉くなって戻ってこい!」
「その時は俺たちのことも助けてくれよな」
皆がユステルの体に触れ、寂しさを隠すように笑った。
ユステルも笑った。
笑ったが、それでも涙は流れた。
別離の涙は生まれて初めてだった。
その時は信じていた。
もっと多くの人を助けられるようになるのだと。
自分の力は、そのためにあるのだと。
まさか数年後、自分が貴族たちのための「薬」として扱われることになるなど、想像もしていなかった。
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