第28話 限界
ユステルは拳を握りしめた。
そうしなければ、恐怖で逃げ出してしまいそうだった。
傷ついたものを癒すことが自分の使命だと思っていながら、眼の前の光景に圧倒されていた。
(ユステル、どうした?)
様子がおかしいことに気づいたアンジェロが語りかけてくるが、それに返事をすることもできない。
視線は眼の前の怪我人から動かず、冷や汗が首筋を伝って降りた。
(ユステル!)
ひときわ強いアンジェロの声で、はっとユステルは我を取り戻した。
自分に縋り付いているラオベルトの手を慌てて取り、こちらを見上げる視線に頷いて見せる。
「やれるだけの事を、やってみます」
トリストの方を見ると、真剣な表情で頷きが返ってくる。
周りの護衛たちも、この建物にいる人々も、自分の方に視線を向けていた。
ユステルはラオベルトが話しかけていた男に近づくと、目を閉じて深呼吸し、その場に膝をついて、男の胸の上に手を置いた。
掛け布や帯布があるため、傷口を視ることは出来ないが、そうして意識を集中することで、ぼんやりと男の状態が頭の中に浮かんでくる。
男の体には浅い傷と深い傷が表面を覆うように折り重なっており、それは体の下側に向かうほど顕著で、片足の膝から下には命の気配そのものが感じられない。
生きているのが不思議なくらいの、深刻な状態だ。
ユステルは強い不安に駆られた。
そして同時に、胸の奥にあるちからが強く疼くのを感じた。
眼の前の男を助けたいという思いと、きちんと治癒が出来るだろうかという思いが、同時に胸の中で渦を巻く。
癒さないという選択肢はない。
ユステルは覚悟を決めて、聖句を口にした。
「生を慶び、命を祝し、老いを諾い、死を諒し、あまねく旅路の助けとなるよう」
治癒の時に見る、あの光が体から溢れた。
周囲からは感嘆の声が漏れ、治癒の光を一身に浴びる男からは悦びのため息が漏れる。
ラオベルトは眼の前で起こっている奇跡を、両目をめいっぱいに広げて見守っている。
ユステルはそれにも構わず、治癒の手応えを探っていた。
(傷が多すぎる……!
臓腑も弱っていて動きが少ない……。
食事を摂れていないのか……!)
多くの怪我人を治癒してきたユステルをして、これだけの重傷者に治癒を施すのは初めてのことだ。
治癒師としての教育の際に、人体の仕組みについては学んでおり、どこにどう治癒のちからを注ぐことが効果的であるかについては特に真剣に学んでいた。
この男は、その時に学んだ全ての症例が一つになって現れたかのような状態なのだ。
貴族たちの傷を癒した時は勿論、アンジェロと初対面のときにちからを流した時と比べても、この男の治癒は難しかった。
それでも、朽ちかけた肉体にちからを流し、弱った臓腑を手助けし、体の中から傷と病の気配がなくなるまで力を注いだ。
「おお……!」
近くにいる者たちは、ユステルのちからの凄まじさを目にした。
横たわる男の皮膚はみるみるうちに綺麗な肌色に戻り、それどころか、傷のあった場所からは中に入っていたらしい異物がポロポロと落ち始めた。
今にも止まりそうだった呼吸は大きくゆっくりとしたものになり、息を吸う度に、体を包み込む黄金の光が吸い込まれていくように見えた。
ユステルは目を閉じて祈った。
今できる精一杯のちからを流し込んだ。
「……っ!」
ふいに、辺りを照らしていた光が消えた。
途端にラオベルトが立ち上がり、男の体を検分し始める。
周りに居た手伝いたちも慌ててそれを手伝う。
男の肉体からは、死の気配が拭い去られていた。
瑞々しいとは言えないが、血色のよい肌や、規則正しく繰り返されている呼吸は、健康なもののそれと遜色ない。
めくった布をばたばたと振るうと、石屑や蟲がボロボロと落ちた。
「奇跡だ」
ラオベルトは陶然とした様子で言った。
そしてユステルに再び向き直り、今度は自ら体を小さく丸めて、年下の治癒師に感謝を示した。
「ありがとう!
ありがとう、ユステル!
凄まじい治癒だった!
これで、これでこいつはきっと助かる!」
しかし、返すユステルの言葉はひどく重かった。
「……いえ、治癒を……失敗しました」
「えっ?」
「ごめんなさい……私の力不足です……」
今いっときの治癒では、ユステルは自分で思っていたよりも疲れていなかった。
むしろ心に燃える癒しの灯は強まるように感じている。
だが、ユステルは失敗を確信して、申し訳なさそうにうつむいて言った。
「足が、戻せませんでした」
その言葉に、はっとしたラオベルトが男の足に目を向ける。
強く巻かれ、血で固まった帯布をばりばりと剥がすと、中からは毛穴すら美しく見えるような健康な足が出てきた。
しかし、それは膝までだ。
膝から先は、失われたままだった。
「ごめんなさい……」
ユステルは誰にともなく、力なく謝罪を口にした。
しかし、周囲の反応は逆だった。
「すごい……死にかけていたひとを、ここまで癒すなんて」
「見ろ、腐りかけていた皮膚が、その痕すらなく……!
これが治癒師のわざなのか!」
「膝を見ろ、綺麗に塞がって……」
「もしかして俺たち、助かるのか?」
眼の前で起こった出来事を理解した瞬間、ユステルに人が殺到した。
いや、殺到しようとしたが、その動きは遅く、そしてユステルを守るべき周囲に控えていた護衛たちの動きは早かった。
鍛え上げた男たちがすぐに囲いとなり、ユステルと怪我人たちを隔てる壁となる。
その向こう側から、トリストの大きな声が聞こえてきた。
「今諸君が見た通り、治癒のちからを持つ正当な治癒師の方だ!
はやる気持ちはわかるが、重傷のものから順に診て頂く予定だ。
静かに待っていてくれ」
治癒師への、早く癒してほしいという焦りよりも、トリストへの信頼が勝るのだろう。
彼らの指示で、周りにいたものたちはすぐにユステルから離れていく。
かわりに、治癒を急かす声がそこかしこから上がりはじめた。
「神官様、どうか俺にも御慈悲を」
「先に私に治癒をお願いします」
「治癒師様、こちらを先に、どうか、どうか」
「神官様!」
「治癒師殿……!」
そこにあるのは、生を諦めない希望の輝きだ。
だがユステルはその中にあって、いつかに感じた温かな気持ちではなく、冷たい楔を胸に打ち込まれたような気分になっていた。
(ユステル、今は治癒に専念するんだ)
(アンジェロ……)
(お前はよくやれている。
死にかけた時に治癒を受けた俺が保証する。
だからまずは、ここにいる奴らにも治癒をかけてやってくれ)
その後は、トリストに促されるままに、最も傷の重いものたちから順に治癒を施した。
今にも消えてしまいたくなるような沈んだ気分とは裏腹に、傷ついたものを癒すべく振るわれるちからは尽きる様子がなく、ユステルは求められるままに治癒のちからを振るった。
「ユステル様、お疲れではありませんか?」
「……治癒のちからの事を仰られているのであれば、まだ余裕があります」
「凄まじいですね……。
ありがとうございます、それでは続けてこちらへ……」
トリストはこのように何度もユステルを慮り、休憩が必要でないかを尋ねてきたが、ユステルは首を横に振って治癒を続けた。
途中、食事するための僅かな時間を挟んで、治癒は夜遅くまで続いた。
トリストは途中で止めて休むように言ったが、ユステルはそれでも治癒のちからを振るい続けた。
そしてその建物に収容されていたものの最後のひとりが治癒を受け終わった時、そこは歓声に包まれた。
「すごい、まさか一日でこれだけの数を癒して下さるなんて!」
「これで帰る事が出来る!」
「もう一度立つことが出来るなんて……ああ……」
「治癒師ユステル様、ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
「ユステル様!」
癒しを受けたものたちは一様に、ユステルへの感謝を口にした。
しかしユステルは、おざなりにそれらに返事をしたあと、トリストに疲れたと訴えて、その日の寝室へと案内された。
寝室は同じ建物の中に誂えられていた。
誰かが気を利かせたのか、湯を張った桶や、血がしみついていない真新しい布などが用意されている。
しかし、ユステルはそれらに手をつけることもせず、寝台の端に腰掛けた。
「おい、大丈夫か?
そんな風に座ってないで、横になったほうがいいぞ」
「大丈夫です。
それよりラオベルトさん、今日は一人で眠らせてくれませんか」
「……ああ、そのくらいならお安い御用だ。
なあユステル」
「…………」
「ありがとな。
今日会ったあいつ、義足が出来たら帰れることになったんだ。
これからも傷ついた知り合いと会う事になるかもしれねえが、お前がいてくれれば、俺は安心だ」
「……ありがとうございます。
おやすみなさい、ラオベルトさん」
「ああ、おやすみユステル、また明日な!」
ラオベルトはユステルに笑顔をみせて、部屋を出た。
かわりの護衛は入って来なかったので、上手く話を通してくれたようだ。
ユステルは暫く、ランプの光の中で座ったまま微動だにしなかったが、ふと思い出したように口を開いた。
「アンジェロ」
「どうした?」
ユステルが語りかけると、アンジェロは打てば響くように影から出てきた。
見上げた先では、闇の中に立つアンジェロが心配そうにこちらを見ていた。
その顔がぐっと近づく。
アンジェロが膝を折って視線を合わせてくれたのだ。
ユステルはその顔に、自分の気持ちを打ち明けた。
「私は、治癒を施した方々には、元の暮らしに戻れるくらいに元気になってほしいと思っていました」
「そうか」
「ですが、手足や目や耳を失った方を、元に戻すことは出来ませんでした」
「そうだな」
「思い返せば、スラムにいた頃から、それだけの傷を負った方を診たことがありませんでした」
「そうだろうな」
「何故なのでしょうか?」
「王都にたどり着けないからだ」
アンジェロの答えにユステルは黙った。
言葉は続く。
「部位を失うというのは、命に関わる重傷だ。
血を失い、傷は腐り、病を得易くなる。
怪我をしてすぐに適切な処置をしなければ、安全な場所まで連れていっても、死ぬ」
「…………」
「そして無事に生還しても、傷がすぐに癒えるわけではない。
他の領地からかき集めた薬を惜しげもなく使い、湯で煮て清めた布で常に傷口を覆い、病や蟲から体を守って、それでも死ぬかもしれないという傷だ」
「……それでも、生き延びる方はいるでしょう?」
「無事に治ったとしても、体のどこかを欠いた状態で、自分の村や領、あるいは治癒を受けられる教会や神殿まで、どうやって行く?
歩けば獣に襲われるし、馬車に乗ったところで長旅には耐えられない。
途中で命を落とす事になるのだ」
果たしてそうだろうか。
ユステルは思った。
アンジェロはこの国の端で戦い、死んでもおかしくない深手を負った状態で王都まで来た。
なら、他の者も出来ない道理はないのではないか。
「アンジェロは王都まで来たじゃないですか」
「ああ、俺は、というか、俺達は特別なんだ。
……話していなかったか」
アンジェロは目を伏せ、自嘲するように笑ってから、再び口を開く。
「俺達、黒髪の一族は、『生命励起』という魔法が使える。
傷の治りをよくしたり、臓腑の痛みを和らげたり、長い時間走り続けられたり、というものだな」
「……生命励起」
「ああ、そして俺は戦うために体を鍛えていたし、ちからの作用をある程度操れるくらいには強かった。
だから全身が焼けただれた状態でも、馬車にのせられて王都まで来れたし、病を退けて痛みに耐えることが出来た。
しかし」
アンジェロは言葉を切り、ユステルに微笑んだ。
「手足を失わなかったのは、ただ幸運だっただけだ。
だからユステル、お前が手足を失ったものを診たことがないのは当然なんだ。
そしてそれらを癒せるのは、神話にある使徒や、神そのひとだけだ」
ユステルは再び黙った。
今度は、アンジェロは何も言わずにそこにいる。
胸の中でひどく痛むそれが形になるのを待って、ユステルはそれを吐き出した。
「今日、最初に癒した方は、ラオベルトさんの知り合いのようでした」
「ああ、随分と気安い関係に見えたな」
「治癒が終わった後、眠りに落ちていたあの方は、他の方を治癒している最中に目を覚ましました」
「そうだったか」
「その時、あの方は自分の手を見て、体をまさぐって、それから体にかけられた布を剥ぎ取りました」
「ああ」
「その時の、あの方の顔が忘れられません」
ユステルは両手で顔を覆った。
「悲しげに顔が歪んで、ああ、駄目だったかと、口が動くのが見えました。
ラオベルトさんが駆け寄ると、すぐに笑顔になられていましたが、確かに悲しそうになさっていました」
「そうか」
「私は治癒に失敗しました」
「…………」
「失敗したんです」
ユステルは自分の掌を見る。
このちからで、傷や病に苦しむ人々を救いたいと願っていた。
祈りを欠かしたことも無いし、自分なりに理解を深め、研鑽してきたつもりでもいた。
どんな傷でも必ず癒してみせると決意していた。
しかし、失われた部位を癒す事は出来なかった。
そして、ここには同じように体の一部を失ったものが、今日一日に診ただけでも沢山いた。
これから、その何倍ものひとびとを目にする事になる。
掌は涙で濡れていた。
その日、ユステルは初めて己の限界を知った。
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