第17話 必要な癒し
「一体、いつからですか?」
「あの子が言葉にしたのは会食の後です。
ですが、主人の訃報を聞いてから、あの子は塞ぎ込んでいました。
もしかしたらその間にずっと考えていたのかもしれません」
ナザディアは沈痛な面持ちで自分の手元に視線を落とした。
ユステルも、会食のときの、うつむいて黙り込んだ小さな少年の姿を思い浮かべた。
アンジェロと比べるわけではないが、彼に聞いていたような勇猛さや大胆さは、その姿からは感じられなかったように思う。
ユステルは先を促した。
「本人の言い分は、どのように?」
「……主人が倒れた今、その情報が隣国に渡れば、きっと苛烈な攻撃が始まる。
その前に領地を脱出するべきだ。
折良くラオベルトが当主を継承したがっているので、そちらに任せておけばいい、と」
「脱出……。
では、息子さんも手紙を?」
「わたくしの実家からの手紙が、息子にも届いています。
そちらにも、王都へ来るようにという催促が記されていたのでしょう」
ナザディアは目を閉じた。
その顔はひどく疲れていて、しかしきつく閉じられた目は涙を流さないように堪えているようで、あまりにも悲しい顔だった。
そのまま、ナザディアは続ける。
「主人には、自分が死んだらすぐ逃げろ、と言われた事があります。
ですが、わたくしとてドラウキンの一員となった者です。
主人が命をかけて守ろうとしたものを、わたくしだって守りたい。
……たとえ命を懸けてでも」
ナザディアの顔から輝くものが落ちた。
「伯爵との取引が止まっても、戦線を暫く維持できる程度の備蓄はあります。
ですが、その疵は後々まで尾を引くことになるでしょう。
貴族教育を受けていないラオベルトが当主に収まっても、事態は改善するとは思えません。
あの子が当主として立ってくれれば、まだ出来る事はありますが、本人が拒絶している今、それすらも難しい。
せめて……」
はたはたと落ちる輝きが増え、それを掬うように、ナザディアは両手で顔を覆った。
「せめて、あの人が生きてさえいてくれれば……」
すすり泣くナザディアの姿に、ユステルは胸を打たれた。
たった一年、仲を深めただけの自分でも、アンジェロの死には並々ならぬ衝撃を受けたし、葬儀の場でもその喪失感で胸が苦しくなった。
アンジェロは家族を溺愛していたというし、きっと彼女たちもアンジェロの愛に応えていたはずだ。
その彼女たちが感じている悲しみの深さはどれほどのものなのか。
考えただけで、胸の奥が締め付けられる思いだった。
ナザディアは震えながらただ顔を覆い、それもほんの僅かな時間だけで、すぐに手布で涙を拭い、ユステルに向き合った。
「お見苦しい姿を晒してしまいました。
それより、わたくしからのお話ばかりしてしまいましたね。
ユステル様のご要件をお伺いいたします」
気丈に振る舞うナザディアの表情には、既に涙の痕すら残っていなかった。
だが、冬の荒屋でひとり過ごすような震えを、身近な者を喪う理不尽の刃を、かつて故郷で見たものと同じ悲しみをその目におさめたユステルには、強い決意が宿っていた。
心が燃えていた。
「私は治癒師として、あなたを癒しにきました」
ユステルはそう口にした。
口にしながらも、自分で自分を不思議に思った。
かつて自分は、傷ついた者をこそ癒したい、病を消し去りたいと、そう神に誓ったし、そうあろうとしてきた。
だが、眼の前にいるこの女性にも、癒しが必要だと感じたのだ。
傷を癒し、病を癒やせと訴える何かが心のなかにあるとすれば、それが彼女に癒しを与えろと叫んだのだ。
ユステルはナザディアの傍へ寄って跪き、困惑するナザディアの手をとった。
冷たく柔らかい手だ。
王都でユステルを時に求め、時に害した、貴族の女たちと同じ手だ。
だがこの女性は、まだ大人にもなりきれていない自分よりも小さな手で、アンジェロが守ろうとしていたものを守るべく戦っているのだ。
癒したい、癒すべきだと、そう思った。
「私は未熟者ですので、私の治癒に老化抑止の効果はありません。
それでも、アンジェロにしていたように、あなたに癒しを与えたいと思いました。
ご迷惑でなければ、どうか私に治癒を施す機会を下さい」
ユステルは誠心誠意、自分の気持ちを口にした。
ナザディアはそれを聞いてわずかに手に力を込めたが、すぐにその手から力を抜き、ユステルの掌にその小さな手を委ねた。
「ありがとうございます。
治癒を受けるのは王都を離れて以来ですので、久しぶりです。
こちらこそ、無作法があれば仰って下さい」
ユステルは祈った。
この女性が、自分のちからで少しでも癒えればいいと思った。
この疲れ果てた友人の妻が、明日を生きる活力を得られたらいいと思った。
ユステルは初めて、祝詞の一句一句に、心を込めて唱えた。
この人が、今ある生を慶べますように。
この人が、今ある命を祝えますように。
この人が、過ぎる時を受け入れられますように。
この人が、友人の死を受け入れられますように。
この人が、これからも健やかに生きられますように。
「生を慶び、命を祝し、老いを諾い、死を諒し、あまねく旅路の助けとなるよう」
ユステルの全身から、黄金の光が立ち昇った。
まるで部屋の中に朝陽が現れたように、部屋を満たす夜の闇を遍く拭い去り、その光は握られた手を伝ってナザディアの手を、腕を、そして体を包み込んでいく。
ナザディアはひどく驚いた顔をしていたが、次第にその顔は緩んでいき、一瞬悲しそうに歪んで……そして、眠りにおちた。
光は次第に弱まり、やがて部屋の中は小さな照明が闇を照らす静かな空間に戻った。
ユステルはそっと手を離し、眠りに落ちたナザディアが椅子から落ちないよう、肩を支えて背もたれに倒すと、そのまま忍び足で部屋を出た。
執務室の外には家令が待機していた。
「すみません、伯爵夫人はお疲れのようです。
夫人のお部屋までお連れできるように人を手配して頂けますか」
「……そのまま少々お待ち下さい」
家令は暗殺を疑ったのか、一瞬険しい表情になったが、穏やかに寝息を立てるナザディアを見てその懸念は晴れたようだ。
ユステルの衣服を見て、彼が神官である事にも思い至ったのだろう。
何があったかを何となく察したらしい家令は、ナザディアのことを夫人つきのメイドに任せて、ユステルを客室へと案内した。
「大変失礼いたしました。
伯爵夫人はお休みになられるようです。
お部屋までご案内させて頂きます」
家令はやはり粛々とユステルを部屋まで案内したが、去り際に一度、ユステルに深く敬意を払った。
アンジェロは不思議なほど静かだったが、ユステルはあまり気にしていなかった。
ジュリオの継承者問題を聞いたことも、今は心の隅に押しやられていた。
それよりも、自分がとった行動への驚きが勝っていたからだ。
ナザディアの体はどこも傷ついていなかった。
体に疲労はあったかもしれないが、病の気配も感じなかった。
しかし、癒しは発動したし、それには確かな手応えがあった。
自分は何を癒したのだろう。
自分の癒しは正しかったのだろうか。
そんな疑念がユステルの心を支配していた。
それでも、眠らなければ明日が来る。
ユステルは床に入る準備をし、神に祈りを捧げた。
そして掛け布を羽織った時、ようやくアンジェロの声が聞こえてきた。
「妻を癒してくれて、ありがとう」
ユステルが視線を向けると、アンジェロはユステルの寝床の隣に跪き、こちらを覗き込んでいる。
その顔は悲哀を浮かべていた。
「俺は確かに、俺が死んだらすぐ逃げろと、妻に伝えたことがあった。
だが、妻がここを取り仕切っている姿が当たり前になっていて、それを忘れていた。
きっと軽い気持ちで言ったそれを、妻は今も覚えていて、そして辛い中でもここで戦ってくれていた」
アンジェロの表情が歪んだ。
きっと亡霊でなければ涙が流れていた。
「だから、ありがとう。
妻はきっと今日、救われたと思う」
ユステルは何も言わずに頷き、そして目を閉じた。
思考が闇に溶ける寸前、アンジェロに初めて癒しを施した時にも、今日と同じように気持ちが先走った事があった、と思い返した。
もっと大人になりたいと思いながら、ユステルの意識は眠りに落ちていく。
心にあった疑念は晴れていた。
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