第2話 社長、宇和島にサッカークラブを作ると言い出す
社長室のドアの前に立つと、北島岳の喉がひとつ鳴った。
ノックをする指先が、わずかに汗ばんでいる。
黄昏どきの総務部からここまで来るあいだに、「リストラ」「配置転換」「早期退職」という言葉が、
何度も頭の中をぐるぐる回った。
「……失礼します」
ドアを開けると、社長室の中には、夕陽を背にした男がひとり、窓の外を見て立っていた。
宇和島オレンジトレーディング代表取締役社長――三好大悟。
五十代半ば、がっしりした体格に、少し伸びた髪。
スーツの上着は椅子の背にかけられ、白いワイシャツの袖が肘までまくり上げられている。
「おう、たけし。来たか」
振り返った三好の声は、いつもどおりよく通る。怒っている気配はない。むしろ、どこか上機嫌に見えた。
「お呼びと伺いましたので……」
「まあ座れや」
社長室のソファに促され、岳はおそるおそる腰を下ろした。
テーブルの上には、宇和島オレンジトレーディングの自社ジュースの瓶が二本、
栓を抜かれたまま置かれている。
三好は片方を手に取り、もう片方を岳の前に滑らせた。
「飲め。うちの看板商品だ」
「はあ……」
グラスもコップもない。瓶のまま、というあたりが三好らしい。
岳はラベルを見つめながら、喉の奥がひきつるのを感じていた。
(最後の晩餐、ってほどじゃないよな……)
そんな冗談めいた考えが頭をよぎる。だが、口には出さない。
三好は窓の外――沈みかけた夕陽と、その向こうに広がる宇和海を、しばらく黙って眺めていた。
社長室に、短い沈黙が落ちる。
やがて、三好がぽつりと言った。
「たけし。お前、サッカーは好きか?」
「……え?」
予想外の問いに、岳は瞬きをした。
「いえ、その……テレビで日本代表の試合を見るくらいで。詳しいわけでは……」
「そうか」
三好は、ふっと笑った。馬鹿にしたような笑いではない。何かを確かめて、納得したような笑いだった。
「まあ、いい。詳しくなくていい」
「はあ……」
岳の不安は、ますます膨らんでいく。サッカーの話と、リストラの話が、どう繋がるというのか。
三好は瓶を一口あおると、テーブルにコトンと置いた。
「たけし。松山には、サッカークラブがあるな」
「え?」
「愛媛ユナイテッドだ。知っとるか?」
「あ、はい。名前くらいは……」
「今治にもある。今治ブルーウェイブ。岡村総監督のとこだ」
岳は、ようやく話の方向性を掴みかけた。だが、まだ核心は見えない。
三好は、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「なのにな。宇和島には、ない」
その言い方には、子どものような不満と、大人の本気が同居していた。
「……はあ」
「おかしいと思わんか?」
真っ直ぐな視線が、岳を射抜く。冗談ではない。これは本気の目だ。
「い、いえ、その……サッカーのことは、あまり……」
「愛媛は宇和島のものだぞ」
「え?」
あまりにも豪快な言葉に、岳は思わず聞き返した。
三好は、まるで当たり前のことを言っただけだという顔をしている。
「みかんも、魚も、牛も。宇和島のもんが、愛媛を支えとる。そう思わんか?」
「……まあ、宇和島の産物は、確かに誇れるものだと思いますが」
「だろう?」
三好は、にやりと笑った。
「なのに、サッカーだけは、松山と今治に持っていかれとる。これはな、バランスが悪い」
「バランス、ですか」
「そうだ。愛媛の南にも、旗を立てにゃいかん」
岳は、ようやく嫌な予感を言葉にできた。
「……もしかして、社長」
「うちでサッカークラブを作る」
あまりにもあっさりと、三好は言った。
岳の思考が、一瞬止まる。
「……はい?」
「宇和島オレンジトレーディングが母体になって、宇和島にクラブを作る。名前はもう決めた」
そう言って、三好は指を一本立てた。
「宇和島オレンジエクストリーム」
その名を口にしたときの三好の顔は、少年のように輝いていた。
「……オレンジ、エクストリーム……」
岳は、反射的に復唱していた。口に出してみると、確かに耳に残る。
だが、それよりも先に、現実的な疑問が次々と浮かんでくる。
「社長、それは……その、本気でおっしゃってますか?」
「本気じゃなきゃ、たけしを呼ばん」
即答だった。
「うちは、宇和島ミカンで海外に出とる会社だ。オレンジはうちの看板だ。
だったら、サッカークラブの看板にも、オレンジを掲げりゃいい」
「いえ、そういう意味ではなくてですね……」
「エクストリーム、ってのはな」
三好は、岳の言葉を軽くかわしながら続ける。
「極限、限界、って意味だ。宇和島から、極限まで行く。Jリーグ? 当たり前だ。その先も見とる」
「その先……?」
「アジアだ」
岳は、思わず目を瞬いた。
「アジア、ですか」
「そうだ。ACL。宇和島オレンジエクストリームが、上海だのソウルだのと試合しとる姿を想像してみろ」
三好の声には、妄想と呼ぶにはあまりに具体的な熱がこもっていた。
岳は、頭の中に浮かびかけた光景を、慌てて打ち消す。
(いやいやいや。何を言ってるんだ、この人は)
心の中でツッコミを入れながらも、口には出さない。
社長が本気で夢を語っているときに、水を差す勇気はない。
「たけし」
「は、はい」
「お前が、そのクラブの代表だ」
その一言で、岳の思考は再び停止した。
「……はい?」
「代表。クラブのトップだ。社長でも会長でもいいが、肩書きはあとで決める。とにかく、お前がやる」
「ちょ、ちょっと待ってください、社長」
岳は、思わず身を乗り出していた。
「私、サッカーのことは素人ですし、経営だって、総務の端っこで事務やってきただけで――」
「だからいい」
三好は、きっぱりと言った。
「だから、ですか」
「サッカーに変な色がついとらん。どこの派閥にも属しとらん。
うちの会社の中でも、利害関係が薄い。総務の窓際。最高じゃないか」
「最高、ですかね……?」
「お前、真面目だろ」
唐突な評価に、岳は言葉を失った。
「いや、その……普通だと思いますが」
「普通に真面目、ってのが一番いいんだ」
三好は、指でテーブルを軽く叩いた。
「サッカークラブなんてな、最初は夢物語だ。金も人も足りん。
だからこそ、地道に積み上げられるやつが必要なんだよ。派手なやつはいらん。途中で飽きる」
言っていることは、妙に筋が通っている。
岳は、反論の糸口を探しながらも、どこかで納得している自分に気づいた。
「でも、私にそんな大役は……」
「大役かどうかなんて、やってみなきゃ分からん」
三好は、瓶をもう一口あおった。
「たけし。お前、四十一だろ」
「はい」
「よい歳だ」
岳は、思わず苦笑した。
「そう言い聞かせてはいますが。前厄でもありますし」
「厄なんてな、自分で意味を決めりゃいい」
三好は、あっさりと言い切った。
「四十一で、人生が一回転するやつもおる。窓際で終わるか、ピッチサイドに立つか。どっちが面白い?」
「ピッチサイドって……」
「サッカーで一番になりたい。そんだけだ」
その言葉は、あまりにもシンプルで、あまりにも子どもじみていて、そして――妙に胸に刺さった。
岳は、自分の胸の内を探るように、ゆっくりと息を吸った。
(サッカーで、一番……)
そんなこと、考えたこともなかった。
そもそも、自分の人生で「一番になりたい」と強く願ったことがあっただろうか。
いい大学に入るでもなく、出世競争に燃えるでもなく、
「普通でいい」「平和が一番」と自分に言い聞かせてきた。
それは嘘ではない。本当に、平凡な日々を大切だと思っている。
美咲ちゃんと、あっくんと、同じ食卓を囲む朝が続けば、それでいいと。
それでも――
三好の言葉が、胸のどこかを軽く叩いた。
「……社長」
岳は、気づけば口を開いていた。
「そんな簡単な話じゃないですよね。
クラブを作るってことは、選手も、監督も、練習場も、お金も、全部必要で。
うちの会社だって、余裕があるわけじゃない」
「そうだな」
三好は、あっさりと頷いた。
「簡単じゃない。だから、面白い」
「……」
「たけし。お前、さっきから顔が真っ青になったり真っ赤になったりしとるぞ」
「そりゃ、そうでしょう……」
「でもな」
三好は、少しだけ声のトーンを落とした。
「さっきから、お前の目、ちょっとだけ光っとる」
「え?」
「怖がっとる目じゃない。困っとる目でもない。……迷っとる目だ」
岳は、言葉を失った。自分の内側を、思った以上に見透かされている気がした。
「たけし。お前、ほんとは、何かやりたかったんじゃないか?」
「……」
即答はできなかった。否定しようとすれば、できたかもしれない。
「私はこのままでいいんです」と笑ってみせることも、できたかもしれない。
だが、その言葉は喉の奥で引っかかって、出てこなかった。
窓の外では、夕陽が海に沈みかけている。金色の光が、社長室の中に斜めに差し込んでいた。
(何か、やりたかったのか)
自分に問いかけてみる。答えは、まだはっきりしない。
ただ、胸の奥の空洞が、さっきよりも少しだけざわついている。
「たけし」
三好の声が、静かに響いた。
「やれ、とは言わん」
「え?」
「やれ、じゃない。……一緒にやろうぜ」
その言葉は、意外なほど柔らかかった。
「俺ひとりじゃ無理だ。サッカーのことだって、詳しいわけじゃない。
経営だって、勢いでここまで来ただけだ。だから、お前みたいなやつがいると、助かる」
「私みたいな、やつ……」
「慎重で、真面目で、逃げ癖がない。窓際で十何年も腐らずに仕事してきたやつは、そうそうおらん」
岳は、思わず笑ってしまった。
「褒められてる気が、あまりしませんが」
「褒めとるよ」
三好も笑った。
「俺はな、たけし。お前と一緒なら、宇和島にクラブを作れる気がする」
その言い方は、妙に真っ直ぐで、ずるかった。
岳は、胸の中で何かがほどけていくのを感じた。
(なんか……)
気づけば、さっきまで頭の中を占めていた「リストラ」という言葉は、どこかへ消えていた。
(なんか、楽しそうだな)
自分でも驚くような感情が、ふっと浮かび上がる。
もちろん、不安はある。サッカーのことも、経営のことも、分からないことだらけだ。
失敗すれば、会社にも迷惑がかかるかもしれない。
それでも――
窓の外の海が、夕陽を受けて赤く染まっている。その光景が、いつもより少しだけ鮮やかに見えた。
「……社長」
岳は、ゆっくりと顔を上げた。
「私に、何ができるかは分かりません。でも――」
一度、言葉を切る。喉の奥に引っかかっていた何かを、ぐっと押し出す。
「やってみたい、とは思いました」
三好の口元が、にやりと持ち上がった。
「そうこなくちゃな」
その笑顔は、豪快で、無茶で、そしてどこか頼もしかった。
「じゃあ決まりだ。宇和島オレンジエクストリーム。クラブ代表、北島たけし」
「い、いえ、その、まだ正式に――」
「明日には社内に発表する」
「早くないですか!?」
「勢いは大事だ」
三好は、もう次のことを考えている顔をしていた。
「市役所にも話を通さんとな。宇和島市長、サッカー好きだったはずだ。
あと、地元の高校の監督にも挨拶に行け。宇和島商業だけじゃないぞ。南予のサッカー部、全部だ」
「ちょ、ちょっと待ってください、社長。私、明日から総務の仕事は――」
「総務もやれ。クラブもやれ。どうせ暇だろ」
「暇じゃないですよ!?」
「まあ、なんとかなる」
なんとかなる、で済ませるには、あまりにも大きな話だ。
だが、不思議と、岳の胸の中には、さっきまでのような重たい不安はなかった。
代わりに、落ち着かない高揚感が、じわじわと広がっていく。
「たけし」
三好が、もう一度だけ真面目な声で言った。
「怖くなったら、いつでも言え。俺も怖いからな」
「社長が怖がってどうするんですか」
「怖いから、前に出るんだよ」
その言葉は、冗談めいて聞こえたが、目は笑っていなかった。
「サッカーで一番になりたい。そんだけ、って言ったろ。……その“そんだけ”が、一番難しい」
「……はい」
「だから、面白い」
岳は、小さく頷いた。
社長室を出るとき、外の空はすっかり暮れていた。
廊下の窓から見える宇和海は、もう色を失いかけている。
さっきまでと同じ景色のはずなのに、どこか違って見えた。
(俺が、クラブの代表……)
口の中でそっと転がしてみる。まだ、しっくりとはこない。だが、完全な違和感でもなかった。
(美咲ちゃん、なんて言うかな……)
あっくんは、どんな顔をするだろう。
サッカーのことなんて何も知らない父親が、突然クラブの代表になると言い出したら。
想像すると、少しだけおかしくなった。
総務部に戻ると、すでにほとんどの社員が帰っていた。
自分の席に置きっぱなしにしていた鞄を手に取りながら、岳は深く息を吐いた。
「……なんか、本当に、始まるのか」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりとつぶやく。
胸の奥の空洞は、まだそこにある。
だが、その縁に、何かが少しずつ流れ込み始めているような感覚があった。
宇和島オレンジエクストリーム。
その名前を、もう一度、心の中でゆっくりと繰り返した。
悪くない。
そう思ってしまった自分に、岳は苦笑した。




