第1話 平凡の中の黄昏
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、北島岳は自然と目を覚ました。
四十一歳。目覚ましより早く起きるのは、もう体が覚えてしまっている。
布団から出ると、まだ少し冷たい床の感触が足裏に伝わった。
台所では、妻の美咲ちゃんが味噌汁の湯気に包まれながら、静かに朝食を並べていた。
髪を後ろでまとめ、淡々と動く横顔。岳はその姿を見るだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
そっと背後から抱きつき、頬を寄せた。
「おはよう、美咲ちゃん」
「……おはよう、たけちゃん。ご飯よそってくれる?」
淡々とした声。十七年の結婚生活で、岳の“過剰な愛情表現”にはすっかり慣れてしまっている。
それでも岳は、この変わらない朝が好きだった。
食卓には、息子の晃――あっくんが、スマホを見ながらパンをかじって座っている。
寝癖が少し跳ねているのも、もう見慣れた光景だ。
「おはよう、あっくん」
「……おはよ、パパ」
返事は短い。反抗期の典型だが、岳はそれすら愛おしいと思っている。
「今日、学校どうだ?」
「普通」
「そっか。普通が一番だな」
「……うん」
会話は続かない。それでも、三人が同じテーブルを囲んでいるだけで、岳は満たされていた。
味噌汁の香り、焼き鮭の焦げ目、食器が触れ合う小さな音。平凡で、静かで、何よりも大切な朝。
「じゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい、たけちゃん」
「いってらっしゃい、パパ」
美咲ちゃんの声は優しく、あっくんの声は少しだけ素っ気ない。
それでも岳は、胸の奥に小さな幸福を抱えながら家を出た。
外に出ると、宇和島の朝の空気は少し湿っていて、海の匂いが混じっていた。
遠くでカモメの声が聞こえる。岳は深呼吸をして、会社へ向かった。
宇和島オレンジトレーディング。宇和島ミカン100%ジュースを海外に輸出する中堅企業。
岳はその総務部で、窓際の席に座っている。
今日の仕事は――書類整理、備品の補充、社内行事の名簿作成。
誰にでもできる仕事を、誰より丁寧にこなすのが岳の流儀だった。
同僚たちは岳を「キタさん」と呼ぶ。「キタさんは安定してるよね」と言われることも多い。
岳はそれを褒め言葉として受け取ってきたが、最近は胸の奥に、言葉にできない空洞があるのを感じていた。
窓の外には宇和海が広がり、午後の光が反射してきらめいている。
岳はその光を眺めながら、心の中でつぶやいた。
(平和が一番だよな……)
そう思いながらも、どこか物足りなさが残る。四十一歳。
「よい歳」と前向きに考える日もあれば、「前厄だし、何か起きるかも」と不安になる日もある。
今日の岳は、どちらでもなかった。ただ、いつも通りの“平凡な一日”が過ぎていくと思っていた。
昼休み。コンビニで買ったミカンゼリーを食べながら、岳はぼんやり考える。
(うちのジュース、もっと売れたらいいのにな……)
特に不満があるわけではない。ただ、何かが足りない気がする。
その“何か”が何なのか、岳にはまだ分からない。
夕方。総務部には黄昏の光が差し込み、社員たちは帰り支度を始めていた。
岳はいつものように、書類を揃え、明日の備品を確認し、パソコンをシャットダウンする。
(今日も何事もなく終わった。……それでいいんだよな)
そう思いながらも、胸の奥の空洞は埋まらない。窓の外では、海が夕陽を受けて金色に染まっていた。
その時だった。
総務部のドアが勢いよく開いた。
「キタさん! 社長が呼んでます!」
若手社員が息を切らしている。
岳は固まった。
「……え? なんだろ。もしかして……リストラ?」
黄昏の光が、岳の顔を不安げに照らしていた。




