第3話 夕食のテーブルに落ちる、小さな影
その日の帰り道、北島岳は、いつもより歩く速度が遅かった。
社長室での出来事が、頭の中で何度も反芻される。
宇和島オレンジエクストリーム。
クラブ代表・北島たけし。
(……いやいやいや。落ち着け、俺)
自分に言い聞かせながら家の前に立つと、窓から漏れる明かりが、いつもより温かく見えた。
玄関を開けると、味噌と生姜の香りがふわりと漂ってくる。
「たけちゃん、おかえり」
台所から、美咲ちゃんが顔を出した。
エプロン姿のまま、髪を後ろでまとめ、落ち着いた笑みを浮かべている。
「ただいま、美咲ちゃん」
岳は靴を脱ぎながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
リビングでは、息子の晃――あっくんが、テーブルに肘をつきながらスマホをいじっていた。
イヤホンは片耳だけ。
画面には、何かのショート動画が流れているようだ。
「おかえり、パパ」
視線はスマホのまま。
だが、声はいつもより少し柔らかい気がした。
「ただいま、あっくん」
岳はスーツの上着を椅子にかけ、手を洗ってから食卓についた。
今日の夕食は、鶏の照り焼きと、ほうれん草のおひたし、そして具だくさんの味噌汁。
湯気が立ちのぼり、部屋の空気がゆっくりと満たされていく。
「いただきます」
三人の声が重なる。
箸を動かしながら、岳は何度か口を開きかけては閉じた。
社長からの“爆弾発言”をどう伝えるべきか、まだ整理がついていない。
(言うべきか……いや、まだ早いか……)
そんな迷いが、味噌汁の湯気の向こうで揺れていた。
ふと、あっくんがスマホを伏せた。
「今日さ、体育でサッカーやった」
岳は思わず顔を上げた。
「サッカー? 珍しいな」
「別に。普通に授業だし」
そっけない言い方だが、声の奥にほんの少しだけ熱がある。
岳はそれを聞き逃さなかった。
「どうだった?」
「……まあ、悪くなかった」
あっくんは照れ隠しのように、照り焼きを口に運んだ。
「へえ。ポジションは?」
「適当に前のほう。走るのは嫌いじゃないし」
その言い方は、興味がないふりをしているが、実際には“ちょっと楽しかった”のが透けて見える。
美咲ちゃんも、静かに微笑んだ。
「晃、昔からボール遊び好きだったもんね」
「別に。そんなことないし」
あっくんはそっぽを向いたが、耳が少し赤い。
(……あっくん、サッカー、嫌いじゃないんだな)
岳の胸の奥で、何かが小さく灯った。
社長の言葉が、ふと蘇る。
――宇和島に旗を立てるんだ。
――一緒にやろうぜ。
そして、あっくんの言葉が重なる。
――まあ、悪くなかった。
夕食のテーブルに落ちる影が、ほんの少しだけ形を変えた気がした。
「パパ、どうしたの?」
あっくんが不思議そうに見てくる。
「え? いや、なんでもないよ」
岳は笑ってごまかした。
まだ言わない。
まだ早い。
でも――
(いつか、この話をするときが来る)
その予感だけが、静かに胸に残った。
食卓には、照り焼きの甘い香りと、家族の気配が満ちていた。
平凡で、静かで、温かい夜。
だが、その奥で、確かに何かが動き始めていた。
翌朝。
目覚ましが鳴るより早く、岳は目を開けた。
胸の奥に、昨夜から続くざわつきが残っている。
(言うなら……今日だ)
そう思った。
台所では、美咲ちゃんが味噌汁をかき混ぜていた。
湯気の向こうで、彼女の横顔が静かに揺れている。
「おはよう、美咲ちゃん」
背後から抱きつくと、美咲ちゃんは少しだけ肩を揺らした。
「……おはよう、たけちゃん。今日は早いね」
「うん。ちょっとね」
食卓には、あっくんが眠そうな顔で座っていた。
「おはよ、パパ……」
「おはよう、あっくん」
三人で「いただきます」と手を合わせる。
味噌汁を一口飲んだところで、岳は箸を置いた。
「美咲ちゃん、あっくん。ちょっと話があるんだ」
二人が同時に顔を上げる。
岳は深呼吸をした。
「昨日、社長に呼ばれて……その……」
一瞬、言葉が喉に引っかかった。
だが、美咲ちゃんが静かに頷いた。
「ゆっくりでいいよ、たけちゃん」
その一言が、背中を押した。
「……俺、サッカークラブの代表をやることになった」
沈黙。
味噌汁の湯気だけが、静かに立ちのぼっている。
最初に口を開いたのは、美咲ちゃんだった。
「……サッカーの、クラブ?」
「うん。宇和島に新しく作るんだって。社長が……すごく本気で」
美咲ちゃんは、驚きよりも、まず岳の顔をじっと見た。
「たけちゃんは……どう思ってるの?」
その問いは、核心を突いていた。
岳は、少しだけ笑った。
「怖いよ。正直、めちゃくちゃ怖い。でも……なんか、楽しそうだなって思った」
美咲ちゃんの表情が、ふっと緩んだ。
「たけちゃんがそう思うなら、私は応援するよ」
「美咲ちゃん……」
「だって、たけちゃんが“楽しそう”って言うの、久しぶりに聞いたから」
胸の奥が熱くなる。
あっくんが、照れくさそうに言った。
「パパが代表って……なんか、すげえじゃん」
「え、そう?」
「うん。まあ……ちょっとだけ、かっこいい」
その言葉は、岳にとって何よりの励ましだった。
「ありがとう、あっくん」
岳は立ち上がり、鞄を手に取った。
「じゃあ……行ってくるよ」
「いってらっしゃい、たけちゃん」
「いってらっしゃい、パパ」
玄関を開けると、朝の光が差し込んだ。
昨日までと同じ道のはずなのに、どこか違って見える。
(よし……やるか)
岳は小さく息を吸い、宇和島オレンジトレーディングへ向かって歩き出した。
その背中には、まだ小さな、しかし確かな決意が宿っていた。




