第八話「道中」
メイセキを出て三日が経っていた。
街道は緩やかに南へ続いている。左右に広がる草原は、鉱山都市の煤けた景色とは打って変わって、青く、広い。空も高い。風が気持ちいい。
しかしリィナは、景色を楽しむ余裕がなかった。
御者台の上で、背筋を伸ばして座っている。鎧を着けている。剣を腰に下げている。完全武装だ。
「……リィナさん」
隣でレイヴンが言った。
「何ですか」
「鎧、暑くないッスか」
「平気です」
「そうッスか」
レイヴンは前を向いた。
グラディウスが牛型のまま、荷車を引いている。一定のペースで、悪路も気にせず歩いている。その背中が、どこか呑気に見えた。
しばらく、沈黙が続いた。
街道に、蹄の音だけが響いた。
「……レイヴンさん」
リィナが口を開いた。
「何ッスか」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞッス」
「この旅、どのくらいかかるんですか」
レイヴンは少し考えるような顔をした。
「さあ、どうでしょう」
「さあ、というのは」
「終わってみないと分からないッスよ」
レイヴンは笑った。
「旅ってそういうもんッスから」
リィナは口をつぐんだ。
納得できない顔をしていた。しかし反論もできなかった。
「……そういうものですか」
「そういうもんッスよ」
グラディウスの耳がぴくりと動いた。
風が吹いた。草原が揺れた。
リィナは視線を前に戻した。
空が広い、と思った。
メイセキにいた頃は、いつも山に囲まれていた。空が狭かった。こんなに広い空を、久しぶりに見た気がした。
「……広いですね」
独り言のように呟いた。
「でしょう」レイヴンは笑った。
「旅の良いところッスよ、それが」
昼過ぎに、街道沿いの小さな村に立ち寄った。
レイヴンが商売をする間、リィナは村を歩いた。小さな村だ。家が十数軒、畑が広がっている。人の顔が穏やかだ。メイセキとは違う空気がある。
村の入口に、老人が座っていた。
レイヴンが商売を終えて戻ってくると、その老人と話していた。楽しそうに、笑いながら。
「……知り合いですか」リィナが聞いた。
「初対面ッスよ」レイヴンは言った。
「旅商人は話しかけるのが仕事ッスから」
「初対面でああも話せるものですか」
「慣れッスよ」
レイヴンは荷車に戻りながら、老人から聞いた話を思い出した。
トレド・ライン。次の目的地だ。最近、町の治安が悪化しているらしい。闇市が活発になっている。妙な組織が動き始めているという噂もある。
「……なるほど、ッスねぇ」
呟いた。
「何ですか」リィナが言った。
「いやぁ、次の町の話ッスよ」レイヴンは笑った。「賑やかそうッスねぇ」
リィナはその笑顔を見た。
賑やかそう、という言葉が、全く賑やかそうに聞こえなかった。
夕暮れ時、街道を外れた草原に荷車を止めた。
空が赤く染まっている。遠くに山並みが見える。風が涼しくなってきた。
リィナは御者台から降りて、周囲を見渡した。
草原だ。木もない。屋根になるものもない。
「今夜は野宿ですね」
リィナはレイヴンに言った。声は平静だ。
「任務で何度も経験していますから、大丈夫です」
先手を打った。
心配させたくなかった。弱音を吐きたくなかった。野宿くらい平気だ、と示したかった。
「野宿、ッスか」
レイヴンは御者台から降りながら、軽く笑った。
「大丈夫ッスよ」
「だから大丈夫だと言っています」
「いや、そういう意味じゃなくて」
レイヴンは荷車の側面に手を当てた。
魔力を流した。
荷車が、動き始めた。
幌が広がった。側面が展開した。床が伸びた。壁が立ち上がった。屋根が現れた。窓が開いた。
音もなく、静かに、一軒の家が姿を現した。
二階建てだ。煙突がある。窓から温かい光が漏れている。玄関の扉には小さな魔力灯がついている。
荷車だったものが、今は完全に、小さな一軒家になっていた。
リィナは、動けなかった。
「旅籠キャリッジッスよ」レイヴンは言った。
「移動式の家ッス」
「……」
「空き部屋があるんで、お好きに使ってください」
「……」
「リィナさん?」
「……これが」リィナはようやく声を出した。
「荷車だったんですか」
「そうッスよ」
「今まで、これに乗っていたんですか」
「御者台ッスけどね」
リィナは荷車だったものを、もう一度見た。
どこをどう見ても、一軒家だ。煙突から、薄く煙が上がり始めている。
「……お風呂も、ありますか」
「ありますよ」レイヴンは笑った。「魔力で湯を沸かせるんで、好きな時に入れます。」
リィナは絶句した。
グラディウスが犬型に変形して、玄関の扉を器用に開けて、中に入っていった。我が物顔だ。
「……」
「どうぞッス」レイヴンは扉を示した。「夕飯、作りますッすよ。何か好き嫌いはあります?」
「……ありません」
リィナは扉をくぐった。
中は、外観より広かった。調理台、薬品棚、作業台。小さいが整然としている。温かい空気が満ちている。
リィナは立ち止まって、もう一度周囲を見渡した。
「……野宿の経験が、無駄になりました」
「役に立つ日が来るッスよ、いつか」レイヴンは笑いながら調理台に向かった。「まあ、それより腹が減ったッスね。何か作りましょう」
リィナはしばらく立ち尽くしていた。
それから、小さく息をついた。
「……手伝います」
「助かるッスよ」
グラディウスが、リィナの足元に頭を押し付けた。
リィナはぎこちなく、その頭を撫でた。
夕食は、質素だったが温かかった。
街道沿いの村で仕入れた野菜と、保存食の肉で作ったスープだ。レイヴンが慣れた手つきで作った。旅慣れた人間の料理だ。
二人でテーブルを挟んで座った。グラディウスは隅で丸くなっている。
「……上手いんですね、料理」リィナは言った。
「一人旅が長いッスから」レイヴンは笑った。「自分で作れないと死ぬッスよ」
「メイセキに来る前は、ずっと一人だったんですか」
「そうッスね」
「……寂しくなかったですか」
レイヴンは少し間を置いた。
「どうでしょう、慣れてたッスからね〜」
笑顔だ。しかしその笑顔が、少しだけ遠かった。
リィナはそれ以上聞かなかった。
スープを一口飲んだ。温かかった。
「……美味しいです」
「それは良かったッスよ」
しばらく、食事の音だけが続いた。
窓の外は暗い。草原に風が吹いている。遠くで夜の虫が鳴いている。
リィナは窓の外を見た。
「……レイヴンさん」
「何ッスか」
「ゼノという人は」リィナは言った。
「今、どこにいるか分かっているんですか」
レイヴンはスープを飲む手を止めなかった。
「分からないッスよ」
「だから追っているんですか」
「そうッスね」
「……見つけたら、どうするんですか」
レイヴンは少し笑った。
「話を聞くッスよ」
「それだけですか」
「まずはそれだけッスよ」
リィナはレイヴンを見た。
笑顔だ。いつもの笑顔だ。しかしその目が、少しだけ遠くを見ていた。
リィナは視線を戻した。
スープを飲んだ。
「……一緒に、見つけます」
小さく言った。
レイヴンは少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
珍しく、素直に言った。
グラディウスの尻尾が、ゆっくりと振れた。
夜が深くなった。
リィナは自分に割り当てられた部屋に入った。小さいが、ベッドがある。毛布がある。枕がある。
野宿を覚悟していた自分が、少し恥ずかしかった。
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。
メイセキを出てまだ三日だ。これからどこへ行くのか、どこまで行くのか、まだ分からない。
しかし不思議と、不安はなかった。
あの飄々とした男が隣にいる。それだけで、何となく、大丈夫な気がした。
理由は分からない。
論理的な根拠もない。
ただ、そう感じた。
リィナは毛布を引いて、目を閉じた。
草原の風の音が、窓の外から聞こえた。
レイヴンは作業台に向かっていた。
魔道具の部品を手に取り、細かい調整をしている。旅の夜はいつもこうだ。一人で、静かに、手を動かす。
グラディウスが足元で丸くなっている。
レイヴンは手を動かしながら、ふと窓の外を見た。
草原に、星が出ていた。
メイセキの空より、ずっと星が多い。煤がない分、空が澄んでいる。
「……賑やかになったッスねぇ」
独り言のように呟いた。
グラディウスの耳が、ぴくりと動いた。
レイヴンは小さく笑って、手元に視線を戻した。
明日もトレド・ラインへ向かって進む。
その先に何があるか、まだ分からない。
しかし足は止まらない。
止める気もない。
草原の風が、旅籠キャリッジの窓を静かに揺らした。
【次話予告】
トレド・ライン到着。白昼堂々と闇市が立つ商業都市。レイヴンは商売をしながら情報を集める。そしてある商人から、黒衣の組織の名前を耳にする。




