第七話「出発」
翌日のメイセキは、久しぶりに明るかった。
槌の音が戻っていた。鍛冶場の煙が上がっていた。市場に人が出ていた。昨夜まで息を殺していた町が、ゆっくりと動き始めていた。
完全に元通りではない。怪我人がいる。失った団員の家族がいる。それでも、町は動いている。止まらない。鉱山で生きる人間の、無骨な強さがそこにある。
レイヴンは宿の窓から、その光景を眺めていた。
グラディウスが足元で丸くなっている。犬型のまま、目を閉じている。珍しく、眠っているようだった。
「……頑張ったッスからね」
レイヴンは小さく言った。
グラディウスの耳が、わずかに動いた。
昼頃、ガトリンが宿を訪ねてきた。
部屋に入るなり、椅子を引いて座った。挨拶もない。前置きもない。
「話がある」
「どうぞッス」
レイヴンは向かいに座った。
ガトリンはしばらく、レイヴンを見た。
それから、静かに口を開いた。
「お前が追っている人間について、聞かせろ」
レイヴンは笑顔のまま、少し間を置いた。
「……何でそう思うんッスか」
「坑道の術式を見た時、お前の顔が変わった」ガトリンは言った。「リィナから聞いた。魔法陣の記号を見た瞬間、一瞬だけ笑いが消えたと」
「リィナさん、よく見てるッスねぇ」
「答えろ」
レイヴンはしばらく、ガトリンを見た。
笑顔だ。しかしその目が、静かに考えている。
それから、小さく息をついた。
「……師匠ッスよ」
「師匠」
「私を拾って、育てて、魔法のすべてを教えてくれた人ッス」レイヴンは言った。「ある日、何も言わずにいなくなった」
「それを追っている」
「ええ」
「なぜいなくなった」
「……それが分からないんスよ」レイヴンは笑った。笑顔だ。しかしいつもより、少しだけ重い笑顔だ。「だから追ってるッス」
ガトリンは黙った。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
「坑道の術式は、その師匠のものか」
レイヴンは答えなかった。
それが答えだった。
「……その師匠は」ガトリンは続けた。「敵か」
レイヴンは窓の外を見た。
槌の音が聞こえる。煙が上がっている。町が動いている。
「……まだ、分からないッスよ」
静かに言った。
「分からない、というのは」
「会って、話してみないと」レイヴンは言った。「それまでは、判断できないッスよ。私には」
ガトリンはレイヴンを見た。
長く、静かに。
「……お前は、甘いな」
「そうかもしれないッスね」
「しかし」ガトリンは続けた。「その甘さが、お前の強さでもある」
レイヴンは少し驚いたように、ガトリンを見た。
ガトリンは視線を外した。
「一つだけ言う」
「何ッスか」
「その師匠が本当に敵になった時、お前は戦えるか」
静寂が落ちた。
レイヴンは、しばらく答えなかった。
窓の外を見たまま、静かに目を細めた。
「……戦わなければならない時が来たら」
呟いた。
「戦うッスよ」
笑顔ではなかった。
ただ、静かだった。
ガトリンは頷いた。それだけだった。
椅子から立ち上がって、扉へ向かった。
扉に手をかけて、振り返った。
「リィナを連れていけ」
レイヴンは目を丸くした。
「……それは」
「命令だ」ガトリンは短く言った。「あいつはここにいても、これ以上伸びない。お前と旅をすれば、変わる」
「それはガトリンさんが決めることじゃないッスよ」
「リィナ本人が望んでいる」
レイヴンは黙った。
「あいつは不器用だから、素直に言えない」ガトリンは続けた。「だが俺には分かる。あいつはお前と旅をしたいと思っている」
「……買いかぶりッスよ、私のことを」
「買いかぶりではない」ガトリンは言った。「俺の目は正確だ」
それだけ言って、扉を開けた。
「あとはリィナと話せ」
ガトリンは出ていった。
レイヴンは一人残されて、天井を見上げた。
「……困ったッスねぇ」
グラディウスの耳が、ぴくりと動いた。
夕方、リィナが宿を訪ねてきた。
扉を開けると、リィナが立っていた。鎧を着けている。姿勢が良い。しかし、いつもより少し、固い。
「……少し、よろしいですか」
「どうぞッス」
リィナは部屋に入った。しかし座らなかった。部屋の真ん中に立って、レイヴンを真っ直ぐに見た。
「単刀直入に言います」
「どうぞッス」
「あなたの旅に、同行させてください」
レイヴンは少し笑った。
「お断りするッス」
リィナの眉が、ぴくりと動いた。
「理由を聞かせてください」
「旅は長いッスよ」レイヴンは言った。「目的地も分からない。いつ終わるかも分からない。リィナさんにはここでの仕事があるッスから」
「それは私が判断することです」
「ガトリンさんに命じられたから、ッスか」
リィナは少し黙った。
「……それもあります」
「それもある、ということは」
リィナは視線を外した。
窓の外を見た。メイセキの夕暮れが、煤けた町を赤く染めている。
「……あなたが、心配だからです」
声が、小さくなった。
レイヴンは何も言わなかった。
「一人で旅をして、一人で抱えて」リィナは続けた。「それで平気な顔をしている。でも」
リィナはレイヴンを見た。
「昨夜、眼鏡を外した時のあなたの顔を見ました」
「……どんな顔ッスかね」
「孤独な顔でした」
静寂が落ちた。
レイヴンはしばらく、リィナを見た。
それから、小さく笑った。
「……買いかぶりッスよ」
「買いかぶりじゃありません」リィナは言った。「私の目は正確です」
ガトリンと同じ言葉だ、とレイヴンは思った。
師弟だ、と思った。
レイヴンは少し間を置いた。
「……危ないッスよ、私の旅は」
「知っています」
「足手まといになっても、知らないッスよ」
「なりません」
「グラディウスの世話もしてもらうッス」
「……それは、同行を認めるということですか」
レイヴンは笑った。
「仕方ないッスねぇ」
リィナは少し目を細めた。
それから、深く息をついた。
「……ありがとうございます」
声が、また小さくなった。
レイヴンはそれを聞いて、窓の外を向いた。
「礼はいらないッスよ」
呟いた。
「足を引っ張ったら、置いていくッスからね」
「引っ張りません」
「頼もしいッスねぇ」
グラディウスが、リィナの足元に頭を押し付けた。
リィナは少し驚いて、それからぎこちなく頭を撫でた。
グラディウスの尻尾が、ゆっくりと振れた。
翌朝、夜明け前だった。
宿の前に、荷車が止まっていた。
大きな荷車だ。幌が張られ、側面には「レイ商会・何でも屋」と書かれている。グラディウスが牛型に変形して、荷車を引く準備をしていた。
リィナはその荷車を見て、目を丸くした。
「……これが、移動手段ですか」
「そうッスよ」レイヴンは御者台に座りながら言った。「乗ります?」
「乗ります」
リィナは荷車に乗り込んだ。御者台の隣に座る。座り心地は悪くない。
ガトリンが、宿の前に立っていた。
腕を組んで、二人を見ていた。いつもと同じ顔だ。眉間の皺も、鋭い目も、何も変わっていない。
レイヴンは御者台から、ガトリンを見た。
「お世話になったッス、ガトリンさん」
「ああ」
「メイセキ、いい町ッスね」
「そうだ」ガトリンは短く言った。「帰ってくる場所ができたと思え」
レイヴンは少し笑った。
「……ありがたいッスよ、それは」
リィナはガトリンを見た。
何か言おうとした。言葉が出なかった。
ガトリンはリィナを見た。
「行ってこい」
それだけだった。
リィナは、頷いた。
「……はい」
声が、少し震えた。
ガトリンは視線を外した。それ以上、見なかった。
レイヴンはグラディウスに手綱を渡した。
「行くッスよ」
グラディウスがゆっくりと歩き始めた。
荷車が石畳を進む。蹄の音が朝の静寂に響く。
リィナは振り返った。
ガトリンが、まだそこに立っていた。腕を組んで、荷車の背中を見ていた。
一度だけ、小さく頷いた。
リィナは前を向いた。
目が、少し潤んでいた。
「……泣いてないですから」
「言ってないッスよ」レイヴンは笑った。
リィナは何も言わなかった。
しばらく、二人は黙って前を向いていた。
やがてメイセキの門を抜けた。
街道に出た。空は明るくなり始めている。遠くに山並みが見える。
「次はどこへ行くんですか」レイヴンは言った。
「それを聞くのはワタシッスよ」
「……どこへ行くんですか」
「とりあえず王都に向かうッスよ」
レイヴンは前を向いたまま言った。
「ジェイパムリア。あの坑道の術式の痕跡が、王都の方へ続いてるッスから」
「ゼノ、という人を追って」
レイヴンは少し間を置いた。
「……そうッスね」
静かに言った。
笑顔だ。しかしその目は、遠くを見ていた。
ずっと、何かを追いかけている目だ。
「……一つだけ聞いていいですか」レイヴンは言った。
「何ッスか」
「ゼノさんとは、どんな人なんですか」
レイヴンはしばらく答えなかった。
街道を進む荷車の音だけが、朝の空気に響いた。
「……静かで、強くて」
呟いた。
「誰よりも優しかった人ッスよ」
それだけ言って、口を閉じた。
リィナはそれ以上、聞かなかった。
グラディウスの蹄の音が、朝の街道に響き続けた。
二人と一頭の旅が、始まった。
【第一章・了】
【次章予告】
王都ジェイパムリア。白と金の魔法文明の中心。その華やかな表の顔の裏に、深い闇が潜んでいた。宮廷魔導師長セレディアとの邂逅。そしてゼノの影が、王都の中枢に届いていることが明らかになる。
【作者コメント】
メイセキ編、完結です。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。レイヴンとリィナの旅が、ようやく始まります。二章からは王都へ向かいます。レイヴンの旅の目的が、少しずつ明らかになっていきます。よろしければ引き続きお付き合いください。




