第六話「本気」
眼鏡を外した瞬間、空気が変わった。
路地の石畳が、かすかに震えた。
魔力だ。
レイヴンの体から、魔力が溢れ出していた。静かに、しかし確実に。水が器から溢れるように、自然に、止めどなく。リミットグラスが抑えていたものが、解放されていた。
グラディウスが一歩、後ろに下がった。
魔物が、動きを止めた。
獣の本能が、何かを察したのだ。目の前の存在が、今まで相手にしてきたものとは違う、と。赤い目が揺れている。後退しようとしている。
しかし、遅かった。
レイヴンは仕込み杖の柄を握った。
引いた。
刃が現れた。細く、静かに、月明かりを受けて光っている。
一歩、踏み込んだ。
音がしなかった。
魔力を纏った刃が、魔物を横に薙いだ。一閃だ。風切り音すらない。魔物の外皮が、音もなく断ち切られた。
魔物が、その場に崩れた。
倒れるまでの間に、レイヴンは刀を鞘に戻していた。
納刀の音だけが、路地に静かに響いた。
それだけだった。
グラディウスが、じっとレイヴンを見ていた。
「……お待たせッス」
レイヴンはグラディウスに言った。
それから、倒れた魔物にしゃがんだ。
胸の中心部に手を当てた。
何かがある。
魔物の核心部に、魔力の残滓がある。自然なものではない。外から注ぎ込まれた、人工的な魔力だ。
その感触を、指先で丁寧に確認した。
「……やっぱり、ッスね」
呟いた。
笑顔ではなかった。
ただ、静かだった。
その魔力の手癖を、レイヴンは知っていた。
見間違えるはずがない。何年も、何度も、隣で見てきた術式の癖だ。
「……ゼノさん」
小さく、誰にも聞こえない声で呼んだ。
返事はなかった。
いつもそうだ。
レイヴンは立ち上がった。
前線の方を向いた。
遠くで怒声が聞こえる。陣形が崩れかけている音がする。
「行くッスよ、グラディウス」
グラディウスの耳がぴくりと動いた。
前線は、限界に近かった。
百人の護衛団が、一時間以上戦い続けていた。体力が削られている。陣形の右端が薄くなっている。魔物の数は減っているが、まだ三十体近くが残っている。
ガトリンは後方から指示を飛ばし続けていた。しかし声に、わずかな焦りが滲み始めていた。
リィナは前線の中央で戦っていた。背中の痛みをこらえながら、剣を振り続けていた。疲労が蓄積している。しかし止まれない。
その時、背後から気配がした。
大きな気配だ。
リィナは振り返った。
レイヴンが、大通りを歩いてきた。
いつもと違う。
眼鏡をかけていない。仕込み杖を肩に担いで、柔らかい笑顔で歩いてくる。しかしその周囲の空気が、明らかに違った。重い。静かに、確実に、重い。笑顔は同じだ。歩き方も同じだ。しかし何かが、根本的に変わっている。
「無事でしたか」リィナは言った。
「無事ッスよ」レイヴンは笑った。「片付いたッス」
「片付いた……?」
「まあ、それより」レイヴンは前線を見た。「残り、どのくらいッスかね」
「三十体前後です。しかし団員が疲弊していて」
「分かりましたッス」
レイヴンは前線の後方に立った。
仕込み杖を、前に向けた。
「少し、場所を空けてもらえるッスか」
リィナは一瞬、意味が分からなかった。
「場所、とは」
「前線の方々に、少し下がってもらいたいッスよ」レイヴンは笑ったまま言った。「あとは任せるッスよ」
リィナはガトリンを見た。
ガトリンはレイヴンを見ていた。
眼鏡をかけていない。それだけで、ガトリンには十分だった。
目が、細くなった。
短く指示を飛ばした。
「全員、十歩後退しろ」
団員たちが動揺した。
「団長、しかし」
「後退しろ」
ガトリンの声に、迷いはなかった。
団員たちが下がった。魔物との間に、空間が生まれた。
レイヴンが、その空間の前に立った。
一人で、三十体の魔物の前に立った。
魔物たちが、足を止めた。
また、あの感覚だ。獣の本能が、何かを察している。しかし今度は逃げない。群れだ。数の力で、押し切ろうとしている。
レイヴンは杖を構えた。
目を細めた。
三十体の魔物を、まとめて見渡した。
それから、静かに息を吐いた。
「……お疲れ様ッス」
独り言のように呟いた。
次の瞬間、魔弾が放たれた。
一発ではない。
二発、三発、五発、十発。
止まらない。
杖の先から、光の弾が連続して飛び出した。一発一発が正確だ。軌道が違う。速さが違う。しかし全ての弾が、それぞれの魔物に向かっていた。
追尾している。
三十体の魔物に向かって、三十の魔弾が同時に追尾していた。
魔物が逃げた。散り散りに、方向を変えて逃げた。
無駄だった。
魔弾は曲がった。追いかけた。壁を避けて、地面を這って、それでも正確に魔物を追い続けた。
一体が倒れた。
また一体が倒れた。
音もなく、静かに、順番に。
三十秒もかからなかった。
大通りが、静かになった。
三十体の魔物が、全て地面に倒れていた。
傷はない。血も出ていない。全て、魔力経路を遮断されて、意識を失っている。
レイヴンは杖を下ろした。
外套の胸元から眼鏡を取り出して、静かにかけ直した。
振り返った。
笑顔だ。いつもの、柔らかい笑顔だ。
「……終わったッスよ」
誰も、声を出さなかった。
百人の護衛団が、静かに立っていた。
ガトリンが、腕を組んだまま、レイヴンを見ていた。その目に、驚きはなかった。ただ、静かな確信があった。やはりそうか、と言いたそうな目だ。
リィナは、息をしていなかった。
気づいたら、息をするのを忘れていた。
レイヴンの戦い方を、目で追っていた。三十体の魔物に、一人で向かって、三十秒で片付けた。しかも傷一つつけずに。その間、レイヴンの表情は変わらなかった。笑っていた。飄々としていた。
まるで、朝飯前だったように。
「……レイヴンさん」
リィナは呼んだ。
「何ッスか」
「あなたは」リィナは言いかけた。「本当に、ただの旅の商人なんですか」
レイヴンは少し笑った。
「商人ッスよ」
「それだけですか」
「……さあ、どうでしょう」
いつもと同じ返事だ。
しかしリィナは、今夜初めて確信した。
この人は、仮面をかぶっている。飄々とした、軽い仮面を。その下に、誰も知らない何かを抱えている。
そしてその仮面が、今夜一瞬だけ、外れた。
眼鏡を外した瞬間の、あの静けさ。
あれが、本当のレイヴン・アークレイだ。
後片付けが終わった頃、空が白み始めていた。
怪我人の手当て、魔物の処理、陣形の解除。ガトリンが手際よく指示を出して、護衛団が動いた。
レイヴンは端の方で、グラディウスの頭を撫でていた。
ガトリンが近づいてきた。
「……礼を言う」
「礼はいらないッスよ」レイヴンは言った。「元はと言えばワタシのミスですから。術式を止めたせいで魔物が動き出した。ご迷惑をおかけしましたッス」
ガトリンは少し間を置いた。
「……お前のせいだけではない」
「それでも、ッスよ」レイヴンは笑った。「結果的に町を巻き込んだッスから」
ガトリンはしばらくレイヴンを見た。
それから、短く頷いた。
「一つだけ聞く」
「何ッスか」
「お前が追っている人間は、この件に関わっているか」
静寂が落ちた。
レイヴンはガトリンを見た。
笑顔のままだ。しかし目が、一瞬だけ動いた。
「……さあ、どうでしょう」
ガトリンは頷いた。
「そうか」
それだけ言って、歩いていった。
レイヴンはその背中を見送った。
鋭い人だ、と思った。
グラディウスが、レイヴンの手に頭を押し付けた。
「……分かってるッスよ」
レイヴンは静かに言った。
「行きましょうかね、そろそろ」
空が、明るくなっていく。
メイセキの朝が、始まろうとしていた。
【次話予告】
事件解決後の静かな後日談。ガトリンとレイヴンの男同士の会話。そしてリィナが、同行を申し出る。レイヴンは断る。リィナは押し切る。メイセキを出る朝、ガトリンが二人を見送る。




