第五話「防衛線」
メイセキの夜は、普段から静かではない。
採掘の音、鍛冶の音、人の声。この町は夜でも動いている。それがここの当たり前だ。
しかし今夜は違った。
静かだった。
嫌な静けさだ。音がないのではなく、音を立てることを恐れているような静けさだ。家の明かりが一つ一つ消えていく。扉が閉まる。窓の隙間から、怯えた目がのぞいている。
町全体が、息を殺していた。
町の外へ続く大通りに、護衛団が集まっていた。
百人ほどだ。全員が鎧を着け、武器を持ち、町の外へ続く道に向かって陣形を組んでいる。松明が並び、橙色の光が石畳を照らしている。後方には魔法使いの部隊が控え、前衛には重装備の剣士が並んでいる。これだけの規模でも、五十以上の魔物の群れを相手にするには、決して余裕のある数ではない。
その前に、ガトリンが立っていた。
腕を組んで、団員たちを見渡している。いつもと同じ顔だ。眉間の皺も、鋭い目も、岩のような体躯も、何も変わっていない。
しかしその存在感が、今夜は違った。
重い。
言葉を発していないのに、周囲の空気を支配している。団員たちの背筋が、自然に伸びていた。
「聞け」
ガトリンが口を開いた。
低い声だ。怒鳴っていない。しかし大通り全体に、その声が届いた。
「今夜、魔物の群れがこの町に向かっている。数は五十以上。今まで相手にしてきた規模とは違う」
団員たちの間に、緊張が走った。
「怖いか」
誰も答えなかった。
「怖くて当然だ」ガトリンは続けた。「俺も怖い」
静寂が落ちた。
団員たちが、ガトリンを見た。
「しかし」ガトリンは言った。「この町に、俺たちの家族がいる。俺たちが守らなければ、誰が守る」
誰も動かなかった。
「俺はここを退かない。お前たちも退くな。それだけだ」
短い沈黙の後、団員の一人が拳を鎧に打ち付けた。金属音が響いた。それに続いて、もう一人、また一人。やがて全員が、同じ動作をした。
音が重なった。
ガトリンは頷いた。それだけだった。
レイヴンはその光景を、少し離れた場所から見ていた。
グラディウスが隣にいる。犬型のまま、耳をぴんと立てて、町の外の方向を向いている。
「……いい人ッスねぇ、ガトリンさん」
独り言のように呟いた。
グラディウスの耳がぴくりと動いた。
リィナが近づいてきた。鎧を着け直して、剣を確認している。
「レイヴンさんは後方にいてください」リィナは言った。「道具での支援をお願いします」
「了解ッスよ」
「本当に従いますか」
「従いますよ」レイヴンは笑った。「今夜は特に」
リィナは少し目を細めた。
「……今夜は、というのは」
「戦場ではリィナさんの方が経験豊富ッスから」レイヴンは言った。「餅は餅屋ッスよ」
リィナは何か言いかけて、止めた。
それから、前を向いた。
「来ます」
地響きが聞こえたのは、それから間もなくだった。
遠く、山の方から。低く、重い音だ。一つではない。無数の足音が重なって、地面を揺らしている。
松明の光の届かない暗闇の中に、目が光り始めた。
赤い目だ。一つ、二つ、十、二十。どんどん増えていく。暗闇が、赤い光で埋まっていく。
団員の誰かが、息を呑む音がした。
「怯むな」
ガトリンの声が飛んだ。
「前を向け」
魔物の群れが、動いた。
最初の衝突は、激しかった。
魔物が一斉に押し寄せた。護衛団が陣形を崩さずに受けた。剣が振るわれ、魔法が飛び、怒声と獣の唸り声が入り混じった。
ガトリンは前に出なかった。
後方から全体を見渡して、的確に指示を飛ばした。
「左翼、三体来るぞ。ハルト、前に出ろ」
「右翼、押されている。セナ、援護しろ」
「中央、崩れるな。踏ん張れ」
「後衛魔法部隊、右に集中しろ。左は剣士に任せろ」
声が飛ぶたびに、団員たちが動いた。
陣形が崩れない。
数で押されているのに、崩れない。ガトリンの指揮が、百人を一つの生き物のように動かしていた。
レイヴンは後方から、睡眠玉と魔力紐を使い続けた。
陣形の隙間をすり抜けようとした魔物に睡眠玉を投げる。倒れた魔物を魔力紐で縛る。前線の団員が対処しきれない個体には、仕込み杖から魔弾を飛ばす。
派手さはない。しかし確実だ。
リィナが前線で戦っていた。
ガトリン直伝の剣術だ。無駄がない。正確で、速い。体格で劣る分を、判断の速さで補っている。市民保護を最優先に、陣形の前衛として機能していた。
戦況は、辛うじて保たれていた。
異変が起きたのは、戦闘が始まって三十分ほどたった頃だった。
リィナが前線の右端で戦っていた時、声が聞こえた。
子供の声だ。
町の方から、細い、震えた声が聞こえた。
リィナは振り返った。
路地の入口に、小さな影があった。七、八歳くらいの子供だ。家から出てきてしまったのか、石畳の上に座り込んで、泣いている。
そしてその子供の方へ、一体の魔物が向かっていた。
陣形の右端を突破した個体だ。小型ではない。中型の、素早い個体だ。
レイヴンへの報告より、体が先に動いた。
「っ」
リィナは陣形を離れた。
路地へ向かって走る。魔物との距離を測りながら、子供との距離を測る。間に合う。ギリギリだが、間に合う。
魔物が跳んだ。
リィナが子供の前に滑り込んだ。剣を盾のように構えた。魔物の体当たりを受けた。
衝撃が走った。
吹き飛ばされた。壁に背中をぶつけた。息が詰まった。
それでも、剣を離さなかった。
子供を、放さなかった。
魔物が着地して、こちらを向いた。
リィナは立ち上がろうとした。背中が痛い。足に力が入りにくい。それでも構えを作った。
「逃げなさい」
子供に言った。
「でも」
「逃げなさい」
子供が走り出した。
魔物が再び動こうとした。
その瞬間、別の気配が来た。
大きな影だ。
路地の入口から、何かが飛び込んできた。
熊型のグラディウスだった。
巨体が魔物に体当たりした。魔物が吹き飛んだ。壁に叩きつけられて、一瞬動きが止まった。
グラディウスがリィナの前に立った。
その後ろから、レイヴンが歩いてきた。
笑顔だ。いつもの笑顔だ。
「大丈夫ッスか」
「……来るのが遅いです」
「すみませんッスねぇ」レイヴンは言った。「グラディウスの方が足が速くて」
グラディウスの耳が、得意そうに動いた。
リィナは立ち上がった。背中が痛い。しかし動ける。剣を構え直して、魔物を見た。
「私が」
「いいッスよ」
レイヴンがリィナの前に出た。
「ここは私が引き受けるッスよ」
「でも」
「リィナさんは前線に戻ってください」レイヴンは振り返らずに言った。「百人いても、前衛が一人欠けたら陣形が崩れる。ガトリンさんに怒られるッスよ」
リィナは魔物を見た。それからレイヴンの背中を見た。
「……この魔物、さっきより強いです。気をつけてください」
「了解ッスよ」
「本当に大丈夫なんですか」
「さあ、どうでしょう」
レイヴンは笑ったまま言った。
リィナは一瞬迷った。
しかしレイヴンの背中を見た。笑っている。飄々としている。しかしその立ち姿に、乱れがない。微塵も、乱れがない。
「……必ず合流してください」
「了解ッスよ」
リィナは走った。
路地に、レイヴンとグラディウスが残った。
魔物が壁から剥がれて、立ち直った。
レイヴンはその魔物を、改めて見た。
中型だと思っていた。しかし今、改めて見ると、違う。体の大きさは中型だが、魔力の密度が違う。
重い。
異常に、重い。
「……なるほど、ッスね」
レイヴンは仕込み杖を構えた。
魔物が跳んだ。
レイヴンは横に動いた。杖の先から魔弾を飛ばした。直撃した。しかし魔物は止まらなかった。
速い。
硬い。
そして、魔力の密度がおかしい。
レイヴンは動き続けながら、魔物を測っていた。
倒せる。本気を出せば、今すぐにでも倒せる。
しかし。
「……この魔力、どこかで」
呟いた。
笑顔のまま、杖で魔物の爪を受けた。衝撃が腕に走る。わざと受けた。もう一度、この魔力の感触を確認するために。
重い。
深い。
まるで水底から這い上がってくるような魔力だ。
第三坑道で見た魔法陣の感触と、同じだ。
「……やっぱり、ッスか」
呟いた。
笑顔のまま。しかしその目の奥に、静かな確信が宿った。
この魔物の魔力は、外から注ぎ込まれている。
誰かが、この魔物に魔力を与えている。
そしてその魔力の手癖は、あの魔法陣と、同じだ。
「……丁寧ッスねぇ」
独り言のように呟いた。
グラディウスが横から魔物に体当たりした。魔物がよろめく。レイヴンが魔弾を連射した。
測り続けた。
この魔力の、根拠を。この異常な密度の、正体を。
どのくらいたっただろうか。
遠くで、大きな音がした。
前線の方だ。
レイヴンは魔物から視線を外さずに、耳をすませた。
陣形が崩れ始めている。
百人いても、時間には勝てない。体力に限界が来ている。
「……そろそろッスかね」
レイヴンは魔物を見た。
十分に、測った。
十分に、確認した。
「付き合ってもらったッスよ」
仕込み杖を、静かに持ち直した。
魔物が再び跳んだ。
レイヴンは動かなかった。
眼鏡に手をかけた。
「……少しだけ、本気出すッス」
眼鏡を、外した。
【次話予告】
眼鏡を外したレイヴンの魔力が、夜のメイセキを揺らす。群れの中心に現れた異常な個体と、リミットグラスを外した男の、静かな決着。リィナは初めて、レイヴンの本当の力を目にする。




