第四話「痕跡」
ガトリンは報告を聞きながら、一言も言わなかった。
レイヴンが術式の概要を説明する間、腕を組んで、目を閉じて、ただ聞いていた。リィナが補足を加える。グラディウスが犬型のまま、部屋の隅でお座りをしている。
レイヴンが話し終えた。
沈黙が落ちた。
「……人工の術式だと」ガトリンはゆっくりと言った。
「そうッスね」レイヴンは言った。「自然発生じゃないッスよ、あれは。誰かが意図的に作った」
「魔物を集めるために」
「集めて、何をしたいのかは分からないッスけど」レイヴンは続けた。「少なくとも、今は止めましたッス。しばらくは魔物の発生が落ち着くと思いますよ」
「しばらくは、というのは」
「術式を作った人間が生きている限り、また作られる可能性があるッスね」
ガトリンは目を開けた。
「術式を作った人間に、心当たりはあるか」
一瞬だった。
レイヴンの表情が、ほんの少しだけ動いた。
笑顔のままだ。しかしその笑顔の奥に、何かが揺れた。
「ないッスよ」
即座に答えた。
ガトリンはレイヴンを見た。長く、静かに。
「……そうか」
それだけ言って、視線を外した。
追わなかった。
リィナはその一瞬を、見逃さなかった。
報告が終わって詰め所を出ると、夜になっていた。
メイセキの夜は暗い。街灯の魔力灯が石畳を照らしているが、それでも影が深い。遠くで槌の音がする。夜番の採掘夫が動き始めた頃だ。
「レイヴンさん」
リィナが呼んだ。
「何ッスか」
「今夜は気をつけてください」リィナは言った。「術式が止まったとはいえ、坑道の魔物がどう動くか分からない。宿から出ない方がいいと思います」
「了解ッスよ」
「本当に従ってくれるんですか」
「従いますよ」レイヴンは笑った。「今夜は大人しくしてるッス」
リィナはしばらくレイヴンを見た。
何か言いかけた。術式の記号のことを、聞こうとした。
しかし、止めた。
「……おやすみなさい」
「おやすみッス」
リィナは踵を返した。
レイヴンはその背中を見送って、空を見上げた。
星が出ている。メイセキの空は煤けているが、それでも星は見える。
「さて」
呟いた。
「どうしましょうかねぇ」
グラディウスの耳が、ぴくりと動いた。
宿の部屋に戻ると、レイヴンは荷をほどかなかった。
外套を脱いで、椅子に座った。机の上にランプを置いて、火をつける。橙色の光が部屋を満たした。
それから、荷の奥から木箱を取り出した。
古びた、小さな木箱。
いつもなら開かない。ただ見つめて、しまう。それだけだ。
今夜は違った。
レイヴンはゆっくりと蓋を開けた。
中には一通の手紙と、もう一つ、小さな紙切れが入っていた。
紙切れには、一つの記号が書かれている。
今日、魔法陣の中心で見た記号と、同じものだ。
レイヴンはその紙切れを、しばらく眺めた。
ランプの炎が揺れた。
記憶が浮かんだ。
古い記憶だ。
どこかの部屋。石造りの壁。机の上に広げられた紙。その紙に、びっしりと術式が書かれている。
幼いレイヴンが、その紙を覗き込んでいた。
「……これ、全部覚えるんッスか」
「覚える必要はない」
低い声がした。
机の向こうに、男が座っていた。白髪混じりの黒髪。深い皺。静かな眼差し。その存在そのものが、静かな圧を持っていた。
ゼノだった。
「術式は覚えるものじゃない。理解するものだ」
「理解、ッスか」
「そうだ」ゼノは紙を指先でなぞった。「一つ一つの記号に意味がある。その意味を理解すれば、術式は自然に組める」
「難しいッスねぇ」
「難しくない」ゼノは言った。「丁寧に組め。それだけでいい」
「丁寧に?」
「術式は作った人間の手癖が出る」ゼノは静かに言った。「丁寧に組んだ術式は、何年経っても術師の手癖を残す。それが証明になる。それが責任になる」
幼いレイヴンは、その言葉の意味をよく理解できなかった。
ただ、ゼノの指先が術式をなぞる動きを、目で追い続けた。
記憶が変わった。
別の場面だ。
夜だった。同じ石造りの部屋。しかし空気が違う。重い。何かが、終わりに近づいているような重さがある。
レイヴンは扉の前に立っていた。
部屋の奥に、ゼノがいた。荷をまとめていた。少ない荷だ。旅に出る人間の荷ではなく、消える人間の荷だ、とレイヴンは思った。
「……どこかへ行くんッスか」
聞いた。
ゼノは手を止めなかった。
「ゼノさん」
返事がなかった。
レイヴンは一歩、前に出た。
「答えてくださいッス」
ゼノがゆっくりと振り返った。
いつもと同じ顔だ。静かで、深くて、近寄りがたい。しかしその目の奥に、レイヴンが今まで見たことのない何かがあった。
名前をつけるなら、諦観と呼ぶものだった。
「お前はお前の道を行け」
ゼノは静かに言った。
「それだけでいい」
「そんな答えじゃ納得できないッスよ」
「納得しなくていい」
「ゼノさん」
「レイヴン」
ゼノの声が、少しだけ変わった。
低く、静かで、しかしその奥に何か温かいものが滲んだ。
「お前は、正しく生きろ」
それだけだった。
翌朝、ゼノはいなかった。
ランプの炎が揺れた。
レイヴンは紙切れを、木箱の中に戻した。手紙の隣に、丁寧に。
蓋を閉じる。
椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
ゼノさん、と心の中で呼んだ。
返事はなかった。いつもそうだ。
「……正しく生きろ、ッスか」
呟いた。
「そういうあなたは、どうなんッスかね」
皮肉ではなかった。
ただ、問いかけだった。
世界の終わりを望む男に、正しく生きろと言われた。その矛盾を、レイヴンはずっと抱えている。答えは出ない。出るはずがない。
しかしそれでも、足は止まらない。
止める気もない。
グラディウスが、レイヴンの足元に頭を乗せた。犬型の温かさが、足首から伝わってくる。
「……何ッスか、急に」
グラディウスは動かなかった。
ただ、そこにいた。
レイヴンはしばらくその頭を見て、それから静かに撫でた。
「……ありがとうッス」
グラディウスの耳が、小さく動いた。
夜半過ぎだった。
詰め所から、走る足音が聞こえた。
レイヴンは目を開けた。いつの間にか、椅子に座ったまま眠っていたらしい。グラディウスが耳をぴんと立てて、扉の方を向いている。
足音が近づいてくる。
扉が叩かれた。
「レイヴンさん」
リィナの声だ。
レイヴンは立ち上がった。外套を羽織って、扉を開けた。
リィナが立っていた。鎧を着けている。顔が真剣だ。
「どうしたッスか」
「斥候が戻りました」リィナは言った。「第三坑道の魔物が、動き始めています」
「動き始めた、というのは」
「群れを作って、町の方へ向かっています」リィナは真っ直ぐに言った。「数は、少なくとも五十以上」
レイヴンは少し間を置いた。
「……術式を止めたのに、ッスか」
「はい。術式が止まったことで、溜まっていた魔物が一斉に動き出したと思われます」
なるほど、とレイヴンは思った。
術式で集められた魔物が、行き場を失って外へ向かった。自分が術式を止めたことが、引き金になった。
「ガトリンさんは」
「既に動いています。防衛線を張る準備を」リィナは言った。「ただ、数が多すぎる。護衛団だけでは、持たないかもしれない」
レイヴンは外套の前を閉じた。
仕込み杖を手に取る。
笑った。
いつもの笑顔だ。しかし今夜の笑顔は、少し違った。柔らかさの奥に、静かな何かが宿っていた。
「行きましょうか」
「……本当に来てくれるんですか」
「当たり前ッスよ」レイヴンは言った。「私が術式を止めたせいでもあるッスから」
リィナは少し目を細めた。
「責任感、あるんですね」
「それだけッスよ」
レイヴンは扉を出た。
グラディウスが後に続いた。
夜のメイセキを、二人と一頭が駆けた。
【次話予告】
魔物の大群がメイセキに迫る。ガトリン率いる護衛団が防衛線を張る中、レイヴンとリィナは最前線へ向かう。そしてリィナは、無茶をしてしまう…




