第十三話「罠」
翌朝、レイヴンは早起きだった。
作業台に向かって、何かを組み立てている。昨夜から続けていたのか、目の下にうっすら隈がある。しかし手は止まらない。
リィナが起きてきた。
「……もう起きていたんですか」
「眠れなかったッスよ」レイヴンは笑った。「考えることが多くて」
「ギルバートのことですか」
「そうッスよ」レイヴンは手を止めずに言った。「今日、会いに行くッスよ」
「証拠を持って」
「そうッスね」レイヴンは作業台の上の道具を確認した。睡眠玉、魔力紐、暗閾鏡の予備。それから新しく作ったと思しき小さな道具が二つ、三つ並んでいる。「準備は万端ッスよ」
リィナはその道具を見た。
「……随分と用意していますね」
「まあ、一応ッスよ」レイヴンは笑った。
その笑顔が、いつもより少しだけ違った。柔らかいが、その奥に何かある。
「……レイヴンさん」リィナは言った。「何か、知っているんですか」
レイヴンは手を止めた。リィナを見た。
「……罠ッスよ、今日は」
静かに言った。
リィナは少し間を置いた。
「罠、というのは」
「ギルバートが仕掛けたッスよ」レイヴンは言った。「昨夜リィナさんの顔が割れた。黒衣の組織に報告が入った。今日ワタシたちが来ると分かっていて、待ち構えてるッスよ」
「……なぜ分かるんですか」
「なんとなく、ッスよ」レイヴンは笑った。「ギルバートはワタシたちを排除することに決めたッスよ。取引より、消す方が早いと判断したッスね」
リィナは眉を寄せた。
「それなら、今日は行くべきではないのでは」
「行くッスよ」
「なぜですか」
「罠にかかった方が早いッスから」
リィナは絶句した。
「……罠にかかる、とはどういうことですか」
「外から崩すより、内側から崩す方が効率がいいッスよ」レイヴンは立ち上がった。「罠の中に入れば、ギルバートは安心するッスよ。安心した人間は、余計なことを喋るッスから」
「……それは、危険すぎませんか」
「大丈夫ッスよ」レイヴンは笑った。
「ただ、一つお願いがあるッスよ」
「何ですか」
「ワタシが動くまで、リィナさんは動かないでくださいッス」レイヴンは静かに言った。
「今日は本当に、それだけ守ってくださいッス」
リィナはレイヴンを見た。真剣だ。昨日と同じ目だ。しかし今日の方が、もう少し重い。
「……分かりました」
「約束ッスよ」
「約束します」
レイヴンは頷いた。
「グラディウス」
グラディウスの耳がぴくりと動いた。
「今日は荷車で待機ッスよ。ワタシが合図したら来てくださいッス」
グラディウスの耳が、静かに立った。
午前、二人はギルバートの商会へ向かった。
大通りを歩きながら、リィナは周囲を見渡した。普通の朝だ。人が行き交い、荷車が通り、商会の扉が開いている。
しかし。
「……いますね」リィナは小声で言った。
「どこに見えますッか」レイヴンは笑顔のまま、前を向いて歩いている。
「商会の向かいの露店に二人。路地の入口に一人。屋根の上に一人」リィナは視線だけで示した。
「正解ッスよ」レイヴンは笑った。「他にも商会の中にいるッスけどね」
「……どうやって分かるんですか」
「なんとなく、ッスよ」
リィナは小さく息をついた。商会の入口が近づいてくる。
「……本当に入るんですか」
「入るッスよ」レイヴンは笑った。「リィナさん、笑顔でお願いするッスよ」
リィナは意識して、表情を整えた。
レイヴンは扉を開けた。
応接室に通された。
ギルバートは昨日と同じ場所に座っていた。笑顔だ。気さくで穏やかで、話しやすそうな笑顔だ。しかしリィナには分かった。昨日より目が冷たい。
「いらっしゃいました。お待ちしていましたよ」
「お邪魔するッスよ、ギルバートさん」レイヴンは笑って座った。リィナも隣に座った。
ギルバートはリィナを一瞥した。一瞬だけ、目が止まった。昨夜顔を見た人間と同じ顔だと認識した。そういう目だ。しかし笑顔を崩さなかった。
「さて、魔力増幅器の件、お考えいただけましたか」
「考えたッスよ」レイヴンは言った。「ただ、その前に一つ、見ていただきたいものがあるッスよ」
レイヴンは外套の内側から、帳簿の複写を取り出した。机の上に、静かに置いた。
ギルバートの目が、複写を見た。一瞬だけ、その奥で何かが計算し始めた。
「……これは」
「ご存知のものッスよね」レイヴンは笑った。
「日付、金額、取引相手。全部、表の帳簿には載らないものッスよ」
ギルバートはしばらく複写を見た。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……なるほど」ギルバートは言った。
「随分と、用意がいいですね」
「商人ッスから」
「書状も、お持ちですか」
「持ってるッスよ」レイヴンは笑った。
「ただし、今日は持ってきてないッスよ」
ギルバートは少し間を置いた。
「賢いですね」
「お褒めいただきありがとうッスよ」
「つまり」ギルバートは言った。
「これは取引の申し出、ということですか」
「そうッスよ」レイヴンは言った。
「闇市から手を引いてくださいッス。それだけでいいッスよ。書状も複写も、全部消すッスよ」
ギルバートはしばらく沈黙した。指先でテーブルを叩いた。一度、二度。
それから、笑った。
「……残念ですが」ギルバートは言った。
「その提案には、乗れません」
「理由を聞いてもいいッスか」
「あなたたちを生かしておく方が、リスクが高い」ギルバートは静かに言った。笑顔が消えていた。「書状も複写も、あなたたちごと消した方が確実です」
リィナの体が固まった。手が護身刃に伸びかけた。
レイヴンが、テーブルの下でリィナの手首に触れた。静かに、しかし確実に。待て、という意味だ。
リィナは手を止めた。
ギルバートが立ち上がった。
「どうぞ」
扉が開いた。黒衣の男が四人入ってきた。武装している。魔力を練っている。統率が取れている。
ギルバートは言った。
「諦めてください。あなたの魔道具も、ここでは役に立たない。商会全体に魔力遮断の結界を張っています」
「なるほど、ッスねぇ」レイヴンは頷いた。
「用意がいいッスねぇ、ギルバートさん」
「お互い様でしょう」
「そうッスね」レイヴンは笑った。
「ただ、一つだけ聞いていいッスか」
「何でしょう」
「その結界」レイヴンは言った。
「ゼノさんが作ったんすか」
ギルバートの目が、初めて本当に動いた。
計算ではない。本物の驚きだ。
「……ゼノ様を、知っているんですか」
「知ってるッスよ」レイヴンは静かに言った。
「よく知ってるッス」
ギルバートはしばらくレイヴンを見た。
それから、何かを考えるように目を細めた。
「……ゼノ様に、何者かと聞かれたら」
「レイヴンと言えば分かるッスよ」レイヴンは笑った。「多分ッスけどね」
ギルバートは動きを止めた。
「……あなたはゼノ様の、何ですか」
ギルバートが静かに聞いた。
「弟子ッスよ」レイヴンは言った。
「拾われて、育てられた」
「弟子」ギルバートは繰り返した。
「ならば、なぜゼノ様の組織を追っているんですか」
「組織を追ってるんじゃないッスよ」レイヴンは笑った。「ゼノさんを追ってるッスよ」
「……どういう意味ですか」
「会いたいんッスよ」レイヴンは静かに言った。
「それだけッスよ」
ギルバートはしばらくレイヴンを見た。
しびれを切らした黒衣の4人はそれぞれ武器を構えた。
「待ちなさい!」
しかし男たちは止まらなかった。
組織の命令はレイヴンたちの排除だ。ギルバートの指示より、組織の命令が優先される。そういう目だ。
リィナが立ち上がろうとした。
レイヴンが、静かに手を上げた
座っていてください、という意味だ。
リィナは動きを止めた。
レイヴンはゆっくりと立ち上がった。
外套の胸元に手をやった。
リミットグラスを、外した。
音がしなかった。
しかし空気が変わった。
重くなった。
静かに、じわりと、部屋全体の空気が沈んだ。まるで水底に引き込まれるような、深い重さだ。
男たちの動きが鈍った。足が止まった。膝が、折れた。
一人目が床に手をついた。二人目が壁に背をつけた。三人目と四人目が同時によろめいて、膝をついた。魔力障壁を張り、抵抗を見せたがすぐに耐え切れずに崩れた。
誰も傷ついていない。血も出ていない。ただ、意識を失っていた。
静寂が落ちた。
リィナは息を呑んだ。
何もしていない。杖も抜いていない。魔弾も放っていない。ただ立っているだけで、四人が沈んだ。
「……」
言葉が出なかった。
ギルバートは、その光景を見ていた。笑顔が消えていた。計算する目も消えていた。額に汗が流れ、
指先は震えている。静かに、レイヴンを見ていた。
レイヴンはリミットグラスをかけ直した。振り返って、ギルバートを見た。
笑顔だ。いつもの、柔らかい笑顔だ。
「……続きを話しましょうか、ギルバートさん」
ギルバートはしばらく沈黙した。
それから、ゆっくりと座った。
「……座ってください」
声が、少し低くなっていた。
「お茶を、もう一度持ってこさせましょう」
ギルバートとの話し合いは、一時間続いた。
レイヴンは条件を三つ提示した。
一つ。闇市への関与を段階的に縮小すること。
二つ。黒衣の組織への資金提供を減らすこと。
三つ。人由来の素材を使った取引を、全て即時停止すること。
最初の二つに、ギルバートはすぐに頷いた。
三つ目で、少し間があった。
「……それは、組織への影響が大きい」
「それが条件ッスよ」レイヴンは笑顔のまま言った。「一つでも欠けたら、書状は表に出るッスよ」
ギルバートはしばらく考えた。それから、頷いた。
「……分かりました」
リィナは、その瞬間に静かに息をついた。
完全な解決ではない。しかし人由来の取引が止まる。あの箱の中のものが、これ以上増えない。
それだけで、今は十分だ。
「一つだけ」帰り際、ギルバートが言った。
「王都に行けば、もっと詳しい情報が得られますよ。ゼノ様の動きは、王都に集中しています。宮廷魔導師長のセレディア様も、ゼノ様の存在を把握しているようです」
「……ありがとうッスよ」レイヴンは言った。
「ゼノ様に会ったら、伝えてください」
ギルバートは続けた。
「ギルバートは、約束を守ると」
レイヴンはその言葉を聞いて、少し間を置いた。
「……伝えるッスよ」
静かに言った。
商会を出ると、空は昼を過ぎていた。
リィナは歩きながら、口を開いた。
「……完全には解決していませんね」
「そうッスね」レイヴンは言った。「ただ、今できる最善ッスよ」
「闇市は続きます」
「規模は縮小するッスよ」レイヴンは言った。
「完全に潰すのは、王都でゼノさんの組織全体を動かしてからッスよ。末端を潰しても、上が動いてたら意味がないッスから」
リィナは少し考えた。
「……監禁されていた女性のような人が、まだいるかもしれません」
「いるッスよ、きっと」レイヴンは静かに言った。「だから根本から潰すッスよ。時間はかかるッスけどね」
リィナはこぶしを握った。
「……急ぎましょう、王都へ」
それから、ふと思い出したように言った。
「……さっき、眼鏡を外しただけで四人が倒れましたが」
「そうッスね」
「あれは、何をしたんですか」
「魔力が溢れただけッスよ」レイヴンは笑った。
「抑えてたものが出ただけッス」
「……抑えていたものが出ただけで、四人が意識を失うんですか」
「まあ人によりますね」
リィナは少し間を置いた。
「……あなたは本当に、底が見えないですね」
「褒め言葉として受け取っておくッス」レイヴンは笑った。
空を見上げた。晴れている。雲がない。
王都、か。
ゼノの影が、また一歩、近づいた気がした。
「グラディウス」
荷車の方を向いて呼んだ。グラディウスの耳が、荷車の窓からぴくりと動いた。
「出発の準備をするッスよ」
【次話予告】
トレド・ラインを去る朝。セルジュとの別れ。そして王都・ジェイパムリアへ。ゼノの影が、国家の中枢に届いていた。




