第十二話「取引」
翌朝、レイヴンは作業台に地図を広げた。
トレド・ラインの地図だ。大通り、路地、商会の位置、倉庫の場所。細かく書き込まれている。
リィナは向かいに座って、地図を見た。
「……詳しいですね」
「以前来た時に作ったッスよ」レイヴンは言った。「こういうのは後で役に立つッスから」
リィナは地図を眺めた。ギルバートの商会と闇市の倉庫、二つの印を結ぶように細い線が引かれていた。
「この線は」
「資金の流れの予測ッスよ」レイヴンは言った。「まだ確証がないッスから、今日から三日間で証拠を掴むッスよ」
「具体的には」
「帳簿と書状ッスよ」レイヴンは言った。「この二つが揃えば、ギルバートは言い逃れできないッスよ。在処はセルジュさんに聞いてくるッスよ」
昼前に銀の杯亭へ向かった。
セルジュはいつものテーブルにいた。レイヴンを見て、小さく笑った。
「また来たか」
「お世話になるッスよ」レイヴンは向かいに座った。「裏帳簿と闇市への書状、在処を知ってるッスか」
セルジュはグラスを傾けた。
「……裏帳簿は商会の地下金庫にある。執務室の床下だ。魔力錠がかかっている」
「書状は」
「闇市の奥の小部屋だ。棚の中に過去の取引記録が全部ある」セルジュは続けた。「ただし気をつけろ。昨日からギルバートの動きがおかしい。お前たちと会った後、黒衣の連中に報告が入った」
「……黒衣が動いてるッスか」
「ああ」セルジュは静かに言った。「撤退するなら今だぞ」
「分かってるッスよ」レイヴンは立ち上がった。「ありがとうッスよ、セルジュさん」
「魔道具でいい」セルジュは言った。「ただし、生きて持ってこい」
宿に戻ってリィナに伝えた。
「二手に分かれるッスよ」レイヴンは言った。「ワタシが商会の地下金庫、リィナさんが闇市の小部屋ッスよ。セルジュさんに案内を頼むッスよ」
「分かりました」リィナは頷いた。
「一つだけ、約束してほしいことがあるッスよ」レイヴンは静かに言った。「何があっても余計なことはしないでくださいッス。書状を手に入れたら、すぐに戻る。それだけッスよ」
リィナはレイヴンの目を見た。真剣だ。いつもの飄々とした目ではない。
「……分かりました」
リィナは頷いた。しかしその声が、少し固かった。
夜になった。二人は別々に動いた。
リィナはセルジュと共に闇市へ向かった。
警備が増えていた。入口の男が三人に増えている。しかしセルジュの顔で通った。
中は昨夜より人が少ない。しかし奥へ向かう人間の動きが慌ただしい。何かを急いで運んでいる。
「……証拠を隠しているのかもしれません」リィナは小声で言った。
「急ぐぞ」
奥の小部屋へ向かった。廊下を進んで、角を曲がった。
小部屋の扉が見えた。しかし扉の前に黒い外套の男が二人立っていた。
リィナとセルジュは咄嗟に角の影に隠れた。
「……先客がいますね」
「まずい」セルジュは言った。「証拠を持ち出そうとしているかもしれない」
その時、小部屋の扉が開いた。男が一人出てきた。そしてその後ろに、縛られた若い女性がいた。口を塞がれ、顔が青い。
リィナの体が、固まった。
「……っ」
手が護身刃に伸びた。セルジュがリィナの腕を掴んだ。
「待て。動くな」
「でも、あの人が」
「今動いたら終わりだ。レイヴンの言葉を思い出せ」
リィナは歯を食いしばった。
女性がこちらを向いた。目が合った。助けを求める目だ。
その瞬間、暗閾鏡が揺れた。魔力が切れかけていた。
三つの問題が同時に迫っていた。
書状を手に入れること。女性を助けること。顔を見られないこと。
「……セルジュさん」リィナは小声で言った。「暗閾鏡が切れかけています」
「何」セルジュの顔が変わった。
「俺が男たちの注意を引く」セルジュは言った。「その間にお前が小部屋に入れ。女は後だ、まず書状だ」
リィナは女性を見た。目がまだこちらを向いていた。
リィナは目を閉じた。レイヴンの言葉が頭の中で響いた。今動いたら、全部終わる。
目を開けた。
「……分かりました」
セルジュが動いた。男たちの前に姿を現した。
「おい、お前ら。ここで何をしている」
男たちが戸惑った一瞬の隙に、リィナは影に沿って素早く小部屋へ滑り込んだ。
棚の一番上に、ギルバートの印鑑が押された書状の束があった。掴んだ。
扉を開けた瞬間、暗閾鏡が完全に切れた。
廊下にいた男の一人と、目が合った。
一秒だった。
リィナは即座に男の鳩尾に肘を入れた。男が崩れた。もう一人が動こうとした。セルジュが背後から押さえた。
「走れ」
リィナは走った。書状を抱えて廊下を駆ける。背後で怒声が上がった。
しかし。
走りながら、女性を見た。縛られたまま、壁に背をつけて立っている。
リィナは舌打ちをした。
走りながら護身刃を展開した。女性の縄を一閃で断ち切った。
「走って。出口はあちらです」
女性が走り出した。リィナも走った。
出口を抜けた。夜の路地に出た。三人で走り、路地を曲がり、大通りに出た。追っ手の気配が遠くなった。
セルジュが立ち止まって、リィナを見た。
「……余計なことをしたな」
「しました」リィナは息を整えながら言った。「でも、置いていけませんでした」
セルジュはしばらくリィナを見た。それから、小さく笑った。
「……顔を見られたぞ」
「見られました」
「ギルバートの人間に、お前の顔が割れた」
「……はい」
リィナは女性を見た。女性は震えながらリィナを見ていた。
「大丈夫ですか」
「……は、はい」女性は小さく言った。「ありがとう、ございます」
リィナは頷いた。後悔はなかった。しかしレイヴンに何と言えばいいか、それだけが頭にあった。
一方、レイヴンはギルバートの商会の裏口に立っていた。
グラディウスが犬型のまま、隣にいる。
「今夜はサーチフォームで頼むッスよ」レイヴンは小声で言った。「人の気配を感知してくださいッス」
グラディウスの耳がぴんと立った。
裏口の鍵は、簡単な魔力錠だった。レイヴンが魔力を流して、三秒で開けた。
中に入った。廊下は暗い。魔力灯が消えている。夜の商会は静かだ。警備員が二人いるはずだが、グラディウスが先行して気配を確認している。
グラディウスが低く、短く鳴いた。
「右ッスか」
グラディウスの耳が動いた。
レイヴンは左へ進んだ。廊下を抜けて、階段を下りる。地下へ続く道だ。
執務室は地下にあった。重厚な扉だ。しかし魔力錠は、裏口より複雑だ。
レイヴンはしゃがんで、錠前を調べた。
「……丁寧な術式ッスねぇ」
呟いた。見覚えのある組み方だ。
レイヴンは目を細めた。この術式の組み方は、ゼノの流儀に近い。完全に同じではない。しかし影響を受けている。
「……ゼノさんの弟子ッスかね、これを作った人間は」
独り言を呟きながら、術式を解析した。五分かかった。魔力を慎重に流して、錠前を開けた。扉が、静かに開いた。
執務室は広かった。
机、棚、書類の山。壁に地図が貼られている。トレド・ラインだけでなく、王都や他の都市の地図もある。
レイヴンは床を調べた。セルジュが言っていた床下の金庫を探す。
絨毯の端を捲ったところに、小さな扉があった。金庫だ。魔力錠がかかっている。先ほどより複雑な術式だ。
レイヴンは術式を調べた。
「……これは」
手が止まった。
この術式は、ゼノのものだ。完全に、ゼノの手癖だ。ギルバートの商会の金庫に、ゼノが直接術式を刻んだ。
「……随分と深く関わってるッスねぇ」
呟いた。笑顔ではなかった。ただ、静かに、術式を解析し始めた。
十分かかった。
金庫が開いた。
中に、帳簿が入っていた。何冊もある。レイヴンは一冊を開いた。数字が並んでいる。日付、金額、取引相手。全て、表の帳簿には載らないものだ。
闇市への資金移動が、全て記録されていた。
そして最後のページに、一つの名前が繰り返し出てきた。
ゼノ。
「……ここまで、ッスか」
レイヴンは帳簿を閉じた。必要なページを魔道具で複写して、金庫を閉じた。床を戻して、扉を閉めた。
来た道を戻りながら、グラディウスに小声で言った。
「……証拠、掴んだッスよ」
グラディウスの耳が、静かに動いた。
深夜、宿で二人が合流した。
レイヴンが先に戻っていた。帳簿の複写を机に置いて、リィナを待っていた。
リィナが入ってきた。書状を机に置いた。
レイヴンはリィナを見た。息が乱れている。暗閾鏡が外れている。表情が固い。
「……何かあったッスか」
リィナは正面からレイヴンを見た。
「報告があります」
「どうぞッス」
「書状は手に入れました」リィナは言った。「ただし暗閾鏡が切れて、顔を見られました。それと」
「それと?」
「監禁されていた人を、助けました」
静寂が落ちた。
レイヴンはリィナを見た。笑顔ではなかった。しかし怒ってもいなかった。ただ、静かに、リィナを見ていた。
「……その人は今どこッスか」
「セルジュさんに預けました。安全な場所に匿ってもらえるそうです」
「そうッスか」
「……怒っていますか」リィナは言った。
レイヴンは少し間を置いた。
「怒ってないッスよ」
「でも、約束を破りました」
「そうッスね」レイヴンは言った。「ただ」
「ただ?」
「リィナさんがそうすると、分かってたッスよ」レイヴンは静かに言った。「だから言ったんッスよ、余計なことはするなって」
リィナは少し目を細めた。
「……最初から、私が動くと分かっていたんですか」
「なんとなく、ッスよ」レイヴンは笑った。「止められないと思ったッスから行かせたッスよ。それに」
レイヴンは机の上の書状を見た。
「証拠は手に入ったッスから」
「それだけですか」
「あとは」レイヴンは笑った。
「リィナさんらしいと思ったッスよ」
リィナは何も言わなかった。
しばらくして、レイヴンは続けた。
「ただ、一つだけ言うッスよ」
「何ですか」
「顔が割れたッスから、明日は気をつけるッスよ」レイヴンは静かに言った。「ギルバートが動くかもしれないッスから」
「……はい」
レイヴンは机の上の帳簿の複写と書状を並べた。
「まあ、証拠は揃ったッスよ」
リィナは机を見た。それから、静かに言った。
「……ゼノという人が、直接ここに来たということですか」
「そうッスね」レイヴンは言った。「最近かもしれないッスよ」
「……近づいているんですね」
「そうッスね」
レイヴンは窓の外を見た。夜のトレド・ラインは暗い。しかしどこかに、ゼノがいた。最近まで、ここにいた。
「……もう少しッスよ」
独り言のように呟いた。
グラディウスが、レイヴンの足元に頭を押し付けた。レイヴンは静かに、その頭を撫でた。
【次話予告】
証拠を手に、ギルバートのもとへ向かうレイヴン。しかし商会に着いた瞬間、罠が待ち受けていた。黒衣の組織が、先手を打っていた。




