第十四話「出発」
朝が来た。
トレド・ラインの朝は、いつもと変わらなかった。大通りに人が出て、荷車が行き交い、商会の扉が開く。昨夜、商会の応接室で何が起きたかなど、誰も知らない。
レイヴンは宿を出た。グラディウスに荷車を繋いで、出発の準備をした。
リィナが宿から出てきた。荷物を背負って、鎧を着けている。
「準備できましたッスか」
「はい」リィナは頷いた。「今日中に出発ですか」
「昼前には出たいッスね」レイヴンは言った。「その前に、二人に会いに行くッスよ」
最初に向かったのは、銀の杯亭だった。
昼前の酒場は空いていた。セルジュはいつものテーブルにいた。グラスを傾けながら、レイヴンを見て、小さく笑った。
「生きて戻ったか」
「おかげさまッスよ」レイヴンは向かいに座った。「世話になったッスよ、セルジュさん」
「礼はいい」セルジュは言った。「うまくいったのか」
「まあ、それなりッスよ」レイヴンは笑った。「完全じゃないッスけど、動いたッスよ」
「ギルバートが動いた、か」セルジュは少し目を細めた。「どうやって説得した」
「企業秘密、ッスよ」
セルジュは短く笑った。
「……相変わらずだな、お前は」
しばらく、二人の間に静寂が落ちた。
セルジュはグラスを置いて、上着の内側に手を入れた。小さな紙切れを取り出して、テーブルの上に置いた。
「持っていけ」
「何ッスか」レイヴンは紙切れを取った。
「王都に、俺の古い知り合いがいる」セルジュは言った。「信用できる人間だ。俺の名前を出せば、話を聞いてくれる」
「……ありがたいッスよ」
「王都は、この町とは規模が違う」セルジュは続けた。「裏の世界も、もっと深い。一人で動くな」
「リィナさんがいるッスよ」レイヴンは笑った。
「それだけじゃ足りない場合もある」セルジュは静かに言った。「その紙切れの人間を頼れ。損はしない」
レイヴンは紙切れを外套の内側にしまった。
「……セルジュさんは、王都には行かないんッスか」
「俺はここが居場所だ」セルジュは言った。「お前と違って、旅には向いていない」
「そうッスか」レイヴンは立ち上がった。
「またいつか、ッスよ」
「ああ」セルジュは言った。
「次は平和な用件で来い」
「善処するッスよ」
レイヴンは笑った。
リィナはセルジュに向き直った。
「……お世話になりました」
「俺は何もしていない」セルジュは短く言った。「お前が動いただけだ」
「それでも」リィナは真っ直ぐに言った。
「あなたがいなければ、書状は手に入りませんでした」
セルジュはしばらくリィナを見た。
それから、小さく頷いた。
「……達者でな」
それだけだった。
次に向かったのは、セルジュが手配した安全な家だった。
小さな一軒家だ。町外れにある。目立たない場所だ。
扉を叩くと、すぐに開いた。
昨夜助けた女性が立っていた。
昨夜より顔色がいい。怯えが消えている。しかし目の奥に、まだ何かが残っている。それでも、リィナを見て、はっきりと笑った。
「来てくれたんですね」
「出発前に、顔を見ておきたかったッスよ」レイヴンは言った。「大丈夫ッスか」
「はい」女性は頷いた。「セルジュさんのおかげで、安全にしてもらっています」
「良かったッスよ」
女性はレイヴンを見て、それからリィナを見た。
しばらく、リィナを見た。
「……あなたが、助けてくれた人ですね」
「はい」リィナは言った。
「昨夜、ずっと考えていました」女性は言った。「あなたは、何かを犠牲にして私を助けてくれたんだと思います」
「……そんなことは」
「顔を見られた、と聞きました」女性は続けた。「それでも、助けてくれた」
リィナは何も言わなかった。
女性は首元から、小さな飾りを外した。細い銀の鎖に、小さな青い石がついている。シンプルだが、丁寧に作られた装飾品だ。
「これを、受け取ってください」
「そんな、受け取れません」リィナは言った。
「受け取ってください」女性は言った。「お守りです。私の故郷のものです。旅をする人を守ってくれると言われています」
リィナはその飾りを見た。
小さい。しかしその中に、女性の気持ちが詰まっている。
「……ありがとうございます」
リィナは受け取った。
手のひらの上で、青い石が朝の光を受けて光った。
「……無事でいてください」女性は言った。「あなたのような人が、無事でいてくれないと困ります」
リィナは少し目を細めた。
「……あなたもお元気で」
それだけ言った。
声が、少し低かった。
昼前、二人は荷車に戻った。
グラディウスが牛型に変形して、荷車を引く準備をしていた。
リィナは御者台に座りながら、手のひらの飾りをもう一度見た。青い石が、陽光の中で静かに光っている。
「……付けないんッスか」レイヴンが御者台に座りながら言った。
「付けます」リィナは言った。「ただ、少し」
「少し?」
「……少し、勿体ない気がして」
レイヴンは笑った。
「付けた方がいいッスよ」レイヴンは言った。「お守りは、持ってるより付けてる方が効くッスから」
「……そういうものですか」
「そういうもんッスよ」
リィナは飾りを鎧の胸元につけた。青い石が、鎧の上で静かに光った。
「……似合いますッスよ」レイヴンは笑った。
「からかわないでください」
「本心ッスよ」
リィナは視線を前に戻した。しかし耳が、少し赤かった。
グラディウスが歩き始めた。
荷車が石畳を進む。大通りを抜けて、門へ向かう。
レイヴンはトレド・ラインを振り返った。
白い建物が並んでいる。大きな商会の看板が見える。人が行き交っている。表は華やかだ。しかしその裏に、深い闇がある。
「……複雑な町ッスねぇ」
独り言のように呟いた。
「解決できたんですか、本当に」リィナが言った。
「完全にはッスね」レイヴンは言った。「でも、動かしたッスよ。少しだけ」
「少しだけ、か」
「世の中、一度に全部は変わらないッスよ」レイヴンは笑った。「少しずつ、ッスよ」
リィナは前を向いた。
「……王都はどんな町ですか」
「でかいッスよ」レイヴンは言った。「白と金の魔法文明の中心ッスよ。大河が町を貫いていて、魔法研究が盛んで、貴族文化がある」
「華やかですね」
「表はッスね」レイヴンは静かに言った。「トレド・ラインと同じッスよ。華やかな表の裏に、深い闇がある」
「ゼノという人が、その闇に関わっているんですか」
レイヴンは少し間を置いた。
「……関わってるッすね、きっと」
「会えると思いますか、王都で」
「さあ、どうでしょう」レイヴンは笑った。しかしその目が、少し遠くを見た。「ただ、近づいてるッスよ。確実に」
リィナはレイヴンの横顔を見た。
笑顔だ。いつもの笑顔だ。
しかしその目は、ずっと何かを追いかけている。
旅を始めてから、ずっとそうだ。
「……必ず、会えます」リィナは言った。
レイヴンは少し驚いたように、リィナを見た。
「……根拠は」
「なんとなく、です」
レイヴンは一瞬、目を丸くした。
それから、笑った。
いつもより少しだけ、柔らかい笑顔だった。
「……ありがとうッスよ」
珍しく、素直に言った。
グラディウスの耳が、ぴくりと動いた。
街道に出ると、視界が開けた。
草原が広がっている。空が高い。雲が白い。
そして遠く、地平線の向こうに、白い輝きが見えた。
大河の光だ。
ジェイパムリア。王都だ。
リィナは目を細めた。
「……見えますね」
「見えるッスね」レイヴンは前を向いたまま言った。
しばらく、二人は黙って前を向いていた。
グラディウスの蹄の音が、朝の街道に響き続けた。
二人と一頭の旅が、次の章へ向かった。
【第二章・了】
【次章予告】
王都ジェイパムリア。白と金の魔法文明の中心。その華やかな表の顔の裏に、深い闇が潜んでいた。宮廷魔導師長セレディアとの邂逅。そしてゼノの影が、王都の中枢に届いていることが明かされる。
トレド・ライン編、完結です。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。レイヴンとリィナの旅が、いよいよ王都へ向かいます。三章からは舞台が一気に大きくなります。ゼノの影が、国家の中枢まで届いていた。二人は何を見て、何を知るのか。よろしければ引き続きお付き合いください。




