1章8話 灰と紅に囚われて
その日、宮殿へ帰宅したアイリーンは侍女たちに身支度を整えてもらう間、学院であったことを話した。
アルバートが馬車まで迎えに出てきてくれたこと。
リリアナとグレースが専属の護衛としてついてくれたこと。
二人が他の生徒を寄せ付けないでいてくれたので静かに過ごせたこと。
食堂での一騒動と、フィデルの訪問。
おそらく他の生徒からも上がるであろう情報を小出しにしながらアイリーンは周囲の反応を観察する。
王党派と武闘派の侍女は護衛の選抜と婚約者候補たちの接触があったことを喜び、
振興派の侍女は厳しすぎる護衛の行動に不満を漏らし、
中立派の侍女は実績のないグレースの抜擢を訝しんだ。
「グレースはヴェルストラーテン公爵様の遠縁だという話よ」
アイリーンがあえて確信のない口調でそう情報を落とすと、侍女たちは堰を切ったようにしゃべり始めた。
「あら、ではヴェルストラーテン公爵家に隠し子がいるという噂があったのですが、その方だったのでしょうか」
「養女をとられる予定だという話ではありませんでした?」
「幼すぎるし、公爵夫人が連れて回ってらしたから、愛人ではないだろうと言われておりましたけれど、そういうご事情だったのですね」
ぽろぽろと噂話が侍女たちの口からこぼれてくる。
少し下世話な噂にアイリーンは心の中で嫌な顔をした。
すり合わせても、一先ずグレースの話に矛盾はなさそうだとアイリーンは考える。
安心することはできないけれど、一つ答え合わせができたことで緊張を解く。
「そういえば姫様、お花が届いております。ラグナル殿下から」
「叔父様から?」
部屋の片隅に、白い薔薇が活けられていた。
侍女が手渡してきたメッセージカードには、固く、触れたら痛そうなほど角ばった字で学院入学おめでとう、とつづられている。
ラグナルはアイリーンの父の腹違いの弟で、アイリーンより一回り年上の男性だ。
この城の離宮に住み、普段は外交公務を担当しているため宮殿で暮らすアイリーンと顔を合わせることはほぼない。
「最近、ラグナル殿下付きの侍女からも、アイリーン様の今後のご予定を聞かれました。
お会いしたいそうです」
「そうなの? なにかしら……とりあえず、御礼の手配をお願い」
ラグナルから祝いの花が届くのも、接触しようとされることも初めてだ。
何故突然、とアイリーンは少しだけ首を傾げたが、それ以上考えることはしなかった。
そうして、銀の縁取りがされたそのメッセージカードは、アイリーンの文机に仕舞われた。
***
屋敷の自室で、アルバートは拳を握りしめる。
今日、二度も拒絶されたその手はもう冷えて固くなっていた。
「拒絶というのは、想像以上に心にくる」
アルバートはそう零した。
あの日以降、アイリーンは何日も落ち込んでいたと情報を得ている。
それだけ落ち込ませて、今更出迎えだ、面会希望だ、なんてアイリーンが戸惑うのも無理はない。
どこかで彼は慢心していた。多少突き放すことを言っても彼女は変わらず慕ってくれるだろうと。
自分が落とした爆弾がどれだけ彼女の心を焼いたのか。
その焼野原の悲惨さを彼は身をもって痛感した。
自分から突き放したのに、いざ同じ建物にいるとなると、アイリーンに会いたくて会いたくて、フィデルについて行ってしまったのは失敗だった。
アイリーンと再会できたフィデルの興奮した話を聞かされたのも毒だった。
――間近で拝見するアイリーン様は本当に美しかった。
なにを今更なことを。
――髪も瞳も、本当に色鮮やかで。あの部屋はエメラルドグリーンを基調にしているから、余計に映えて美しく見えた
俺がアイリーンだけのために用意した部屋だ。当然だ。
アイリーンが美しいなんて、とっくに知っている。
あの柔らかな夕日色の髪も、森を沈めた瞳も、白磁の肌も、全て俺のものだ。
どんなにお前が良いやつだと知っていても、ひと欠片もお前にはやらない。
アイリーンの隣に立つのは俺だ。誰にも譲るつもりはない。
彼女が笑う瞬間も、泣く瞬間も、全て俺だけのものだ。
七年前。あの地獄から彼女の手を引いて立ち直らせたのは俺だ。
彼女がこれまで受けた傷の深さも、乗り越えた試練の数も、全てを知って、なお愛している。
俺だけが、彼女の隣に立つ資格がある。
なにも知らず、上辺の美しさしか語らない男は論外だ。
沸々と幼馴染のフィデルにまで抱いてしまう殺意をアルバートはなんとか誤魔化す。
城から届いた侍女の情報をもう一度読み直し、アルバートは震えた。
それは何気ない派閥内の定期報告だったが、重要な一文があった。
あの男が、動いた。
***
――あの日に、戻る。
あの日、あのサロンで、全てを始めた。
宮殿のプライベートサロンで、アイリーンの言葉を噛みしめるようにアルバートはきつく目を閉じた。
飲むふりばかりして、実際はほとんど喉を通らなかった紅茶をソーサーに戻して立ち上がる。
もう、無理して笑う彼女を見ていられなかった。
このままここにいれば、作戦も理性も全て捨てて彼女を抱きしめてしまう。
「では、失礼いたします」
彼女の返事は待たなかった。アルバートは踵を返して即座に退室する。
宮殿から城へ続く回廊をアルバートは一人で歩いた。
目を合わせたもの全てを切り刻みそうなほど殺気だっていた。
すれ違う騎士たちが思わず道を空けるほど、その瞳には暗い熱が宿っている。
その情報を聞いた時、反射的にあの男の存在を消さねばならないと思った。正気を疑った。
叔父上、貴方は自分がアイリーンと一体いくつ年が離れていると思っているのか。
あの男がアイリーンの髪に触れる? あの瞳に映る? 隣に立つのを考えるだけでも怖気立つ。
公務が多忙なことを理由に、どこの令嬢とも縁談をまとめなかったのはこのためだったのか。
一体いつからこの計画をたてていたのか。
あの男を、彼女の隣に立たせてはならない。
アルバートは視界の端で敵の住む離宮を捕えると忌々しげに睨み付けた。
今すぐ乗り込んで胸倉を掴んでやりたい激情を理性で押し殺す。
今、動かなければ間に合わない。
脳裏にアイリーンの今にも壊れそうな笑みが浮かぶと、アルバートは音がするほど奥歯を食いしばった。
あんな顔は、初めてみた。
俺が、そうさせた。
今すぐ引き返して彼女を抱きしめたい衝動を抑えながら、アルバートは足を前に進め続ける。
この裏切りが、彼女を傷つけることはわかっている。
それでも。あの男の毒牙を防ぐための時間が、どうしても必要だった。
どんな手も使う。どんな汚泥も踏みしめる。公爵家が潰れても、俺が処刑されても構わない。
七年前と同じ地獄に、彼女を二度と立たせはしない。
それが正しいかどうかなど、どうでもいい。
「アイリーン」
届くはずのない名前を、彼は誰にも聞こえない声で零した。
愛ゆえに彼女を地獄から遠ざけたはずのアルバート。
けれど彼の「作戦」には、まだ誤算があります。
次話、平和な学び舎は派閥争いの「戦場」へと姿を変えます。
【第9話:野心の瞳と、不敬な誘い】本日21:00頃に更新予定。
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