3章4話 赤を纏えぬその夜に
「あのクソ馬鹿男!」
サロンでリリアナは怒りをクッションにぶつけていた。アイリーンとグレースには見慣れた光景だったが、カシアンは女性のそんな暴力的な姿を見るのが初めてで絶句している。
「人前で狡猾にエスコートを要求したあの女も腹立たしいですが、やはりアルバートの馬鹿が一番馬鹿です! なぜ! そこで! 言うことを聞いてしまうのです! なんのためにお前の賢い頭があるのです! そこで使わないでどうするのです! 馬鹿!」
荒れるリリアナに対して、アイリーンはとても静かだった。窓辺の椅子に座って、学院の中庭を見つめている。
「グレース」
抑揚のない声で、アイリーンは呼びかけた。
「フィデル様を、連れてきてくれる?」
フィデルはすぐに飛んできた。
「お呼びでしょうか皇女殿下」
部屋に入るなりアイリーンの足元で跪くフィデルにアイリーンは優しく微笑む。
「お呼びしてしまってごめんなさい。早いほうがいいかと思って」
そう言って、アイリーンは右手をフィデルに差し出す。
「フィデル様、月末の舞踏会、私をエスコートしてくださいませんか?」
フィデルの顔が凍りついた。リリアナとグレースも目を見張る。カシアンさえも、なんとなくまずい気配を感じとった。
「アイリーン様!?」
悲鳴のような声をリリアナがあげる。
「そんな、兄をパートナーに選ぶというんですか?!」
「いけないかしら?」
「だって」
あの馬鹿はどうするんですか、という言葉をリリアナは続けることが出来なかった。彼は、策に嵌まって違う少女をエスコートすることになってしまったのだから。
「最高位である私が早く動かないと皆様が困ってしまうのでしょう? でしたら、早くしなければ」
穏やかな笑みを浮かべたままアイリーンは続ける。
「いかがでしょうか、フィデル様」
アイリーンの顔はとても穏やかだ。
皇女からの誘いを断る言葉は、フィデルの中にはなかった。
「……私で、よろしいのであれば」
「よろしくお願いしますね」
「アルバート様はどうするんですか?」
カシアンが無邪気に問いかけた。カシアンの目から見ても、アルバートがアイリーンを、アイリーンがアルバートを気にしているのは確かだった。
アイリーンの周りの空気がすっと冷えた。翡翠の瞳が刃物のような光を放つ。
「あの方が、なにか関係ありますか?」
カシアンは黙って首を振ることしかできなかった。
◆
ごん、ごん、と鈍い音が夜の地下牢に響く。
屋敷の地下にある秘密部屋で、アルバートは一人、石壁を殴っていた。治ったばかりの手の傷は開いて、壁も拳も血だらけになっていた。
――俺が、アイリーンをエスコートできない。しかも、別の令嬢を連れている。
それはなんという名の地獄なのだろうか。
せっかく修復できてきていた関係が、積み木を崩すようにまた壊れていくのを感じていた。
悪態をついて壁を殴る。なにもかもうまくいかなくて、全てが癪に障る。
ふと、傍らの牢の中で毛布にくるまり眠る煤けた子供を見た。カドゥート家の裏路地に住んでいた孤児は、自分が監禁されているとも知らず、毎日よく食べよく寝ていた。
――裏路地から連れて来たこれは唯一の証言者だ。絶対に殺させないし、逃がしもしない。
ラグナルの顔をアルバートは忌々しく思い浮かべた。
「絶対に尻尾を掴んでやる。なにがなんでもだ」
そんな彼に凶報が届いたのは翌日。
それは新入生歓迎舞踏会に、貴賓としてラグナルが参加するというものだった。アルバートの全身が、その情報に危険信号を出す。
その報せを聞いてから、舞踏会当日まで彼はほぼ不眠で対策を練り続けた。
◆
「フィデル様、大丈夫ですか?」
馬車に同乗するフィデルがあまりにカチコチに固まっているので、アイリーンは思わず問いかけた。
フィデルは城の騎士の礼服を着ていた。馬車の揺れに合わせて金の肩章やモールが揺れる。
対するアイリーンは、ハイネックの空色のドレスを着ていた。胸元から首元までをレースで包み、デコルテを一切露出させないその姿は上品さと気品に満ちている。赤橙の髪は綺麗に結い上げられていた。
「問題、ありません」
明らかに緊張しているフィデルにアイリーンは笑いかける。
「正式な舞踏会ではないのだし、あまり気負わないでくださいな」
フィデルを宥めながら、アイリーンは自分のドレスに触れる。
フィデルの瞳の色で誂えたそれは、レースが幾重にも重ねられていた。レース越しに肌がほんのり見えて柔らかさが際立っている。
城の侍女達に舞踏会のエスコートがフィデルだと知らせると、それはもう大騒動がおきた。武闘派の侍女たちは浮かれ、振興派の侍女たちは悔しがり、王党派の侍女たちは葬式状態で見ていられなかった。武闘派の侍女には歓喜しすぎて涙を流す者もいたぐらいだ。
だが、当の本人は緊張しすぎていて、ドレスの色に気づいた様子はない。
――この空色をみて、アルバート様はどんな顔をするのかしら。
あの日からもう何日も会っていない彼のことを、アイリーンは考える。
――私だって、赤色のドレスを着たかった。
学院に馬車が着く。扉が開くと、夜会服で男装したグレースが先に到着して待っていた。桃色のロールカラードレスを着たリリアナと正装が居心地悪そうなカシアンもいる。
「では、参りましょうか」
室内から煌々と灯りが漏れる夜の学院は普段と違って怪しい雰囲気が漂っていた。
舞踏会の夜が、始まる。
アイリーンが着たのは空色のドレスでした。
グレースは今回も男装です。
次回【3章3話:翠緑と紅、その一瞬】 6月10日(水)21:00頃更新予定。
舞踏会が始まります。
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