2章8話 額の温度
全ての貴族が去ったところで、アイリーンの公務は終了となった。
「お疲れさまでした、アイリーン様」
「グレース、さっきは伯父様が失礼なことを言ってしまってごめんなさい」
「大丈夫です。気にしておりません」
グレースはわずかに微笑んで見せてから、眉を寄せた。
「随分……癖のある方々でしたね」
グレースの言葉にアイリーンは深いため息をつく。
「お母様も、御実家との関係には苦労されたと聞いているわ」
まだ母親が生きていた頃、祖母とは何度か宮殿で会っていたが、
その度に母親が重いため息をついていたのを覚えている。
「貴族学院入学までアイリーンを公務には出さない。貴族の会合等にも参加させない」という決まりを父親が作ったのは、ああいった貴族から守るためだったことをアイリーンは悟る。
幼いうちにあの毒に当てられていたら、アイリーンは潰れていただろう。
「お茶会、一人で行ってはだめですよ」
ぼそりと、グレースが呟く。グレースは学院での護衛だから、学院の外で連れ歩くのは難しい。
アイリーンは上目遣いでわがままを言ってみる。
「そうね、一緒に行ってくれるかしら?」
「もちろん。お供いたします」
顔を見合わせて二人は笑いあった。
「貴族の皆様は全員退出されました。皇女殿下はこの後はどうされますか?」
控えていた騎士が尋ねてきて、アイリーンは考えた。
今すぐアルバート達の所に走っていきたいが、そういうわけにはいかない。
時間が経ってしまった今、彼らがどこにいるか見当もつかなかった。
「一度、貴賓室に戻ります。グレース、アルバート様達が気になります。今どうされているか調べてきてくれますか」
「かしこまりました」
***
アイリーンが貴賓室で待っていると、グレースが連れてきたのはフィデルとリリアナだった。
頭にも両手にもぐるぐるに包帯を巻いたフィデルの姿にアイリーンは絶句する。
「大丈夫ですかフィデル様!」
駆け寄るアイリーンにフィデルが即座に膝を折る。
進行方向を妨げられて、後ろを歩いていたリリアナが顔をしかめた。
「皇女殿下にご心配いただけるなんて夢のようです。この程度はかすり傷です」
「そこで跪かないでくださいお兄様。邪魔です」
爽やかに笑うフィデルの後ろからリリアナが鋭く指摘する。
フィデルはすごすごと移動し、リリアナに道を譲った。
リリアナは白いドレスの上に男性物のコートを肩に羽織っていた。
フィデルのであろうそれはリリアナには大きすぎて床をずるずる引きずっている。
コートを着ている、というよりは、布を纏っている、というような状態だ。
その姿にアイリーンが心配そうに目を向けるとリリアナは不服そうに笑った。
「わたくしはなにも問題ありませんわ。これは兄が着ろとうるさいので仕方なく着ております」
「そんな恰好で歩かせるわけにはいかないだろう」
「重いし臭いんですのよ、これ」
「くさ、くはないだろう……」
フィデルと反対の方向に鼻を鳴らしてリリアナは顔を背ける。けれどその耳がわずかに赤くなっているのを見つけて、アイリーンは微笑んだ。
「そんなことより諸々ご報告があります。長くなるのでアイリーン様は座ってくださいませ」
そしてフィデルとリリアナの口から、順に報告がなされた。
扉を守っていた騎士の証言のこと、案内人を探すため今、病院関係者が大ホールに集められていること、詰めかけていた貧民は全て捕えられたこと。
そして彼らの侵入を手引きした貴族がいることや、自分たちの無実と村の殲滅の中止をしてほしいと嘆願することが目的だったということが報告された。
「村の殲滅? なんのことですか?」
「七年前の皇族毒殺事件の容疑がかけられている、そうです。アイリーン様、なにかご存知ですか?」
「いいえ。全く聞いておりません」
事件の話にアイリーンは顔をしかめた。次に父に会う時、確認することとして胸に刻む。
七年前、皇族が複数人亡くなった後、毒が入れられていた食材をかつて栽培していた村が、粛清のためいくつか焼かれたということは知ってる。
だが、七年たった今、事件に新たな動きがあったということは聞いていなかった。
「アルバートもそう申しておりました。貧民たちは偽情報に踊らされたようです」
フィデルの言葉にアイリーンは彼がこの場にいないことに気づく。
「アルバート様は、どうされたのですか」
こんな報告は、本来アルバートの管轄だったはずだ。尋ねられて、リリアナとフィデルは揃って苦い顔をする。
その反応にアイリーンは顔を青くした。
「まさか、怪我がひどいのですか」
「違います! そうではありません」
「いたって健康です! ですが……」
その先の言葉を二人は濁した。
「アイリーン様にはお会いできないそうです」
どう説明していいか考え込む二人の後ろからグレースが答えた。
「昨日学院でアイリーン様に言われた一言を、気にされているようです」
リリアナとフィデルが、そのまま伝えてしまったか、と顔を覆う。
アイリーンはグレースの言葉に唖然としていた。
――もう来ないでください、とアルバートを拒絶したのは確かに自分だ。だけれど。それでも。あんな風に助けられて、御礼を言わないわけにはいかないでしょう?! 会いに来ないなんて、どういうつもりなのですか!
「どこにいらっしゃるのですか」
アイリーンの低い声にフィデルが体を震わせた。
静かに、しかし確かな怒気をまとってアイリーンは立ち上がった。翠緑の目は冷たく尖っている。
「会いに行きます。案内してください」
***
太陽が夕日になる頃、アルバートは一人調剤室にいた。
壁いっぱいに備え付けられた薬倉庫に薬はまだ入っていないようで、部屋は木材と漆喰の匂いが漂う。
アイリーンがはめられた事実は泥のように黒い怒りを彼の中に満たしていた。
ずきずきと痛む拳の痛みだけが彼を冷静にさせている。
――リリアナとフィデルはうまく報告を終えてくれただろうか。
部屋を出て行った友人達に思いを馳せていた時、ノック音が響いた。
「アイリーンです。入ります」
答えるより前に聞こえてきたその声にアルバートは息を呑んだ。
まさかと目を見開いているうちに扉が開く。部屋に入ってきたのは間違いなくアイリーンだった。
扉の締まる音が、まるで裁判を開始する槌の音のように部屋に響く。
まっすぐこちらを見つめてくる瞳を真正面から受け止める余裕がなくてアルバートは視線を逸らした。
その反応にアイリーンは不満げに顔をしかめる。扉を背にしたままアルバートに問いかけた。
「お怪我は、いかがですか」
「……軽い切り傷です。問題ありません」
アルバートは包帯の巻かれた手を胸の前で動かしてみせる。
会話は、そこで途切れた。
沈黙が痛い。
「アルバート様が悪いのですよ!」
先に耐えれなくなったのは、アイリーン。
「私をカシアン様に引き合わせようとするから! だから、私もあんなこと言ってしまったではないですか!」
荒々しく足音立てながらアイリーンはアルバートに詰め寄った。
間近から紅の瞳を覗き込む。
「私、必要であれば自分で婚約者候補の方と交流を持ちます。アルバート様の助けは必要ありません」
強い翠緑の瞳にアルバートは圧倒される。
――俺のアイリーンは、こんなに強い目をしていただろうか。
アイリーンの強い瞳に、彼女が箱庭で飾られるだけのお姫様から変わっていることを彼は悟る。
言いたいことを言いきったアイリーンは、深呼吸で息を整えた。
包帯の巻かれたアルバートの手に両手でそっと触れる。
「今日は、助けてくださって、ありがとうございました」
その白い手の指先は、礼拝堂の壁をこじ開けようとしたことで紅く腫れていた。
綺麗に整えられていた爪も割れていることに気づき、アルバートは歯を食いしばる。
――彼女を傷つけた奴が憎い。あの状況下に追い込んだ奴も、事前に防げなかった俺も。大事な初公務だったのだから、もっと事前に手を回しておくべきだった。
――この傷を、十倍にして返してやる。
そんなどす黒い感情を瞬きの間にひた隠して、アルバートはその小さな指先を握る。
「君が貴賓室からいなくなったと聞いた時もぞっとしたけれど。 礼拝堂の窓越しに君を見つけた時は、心臓が止まるかと思った」
アルバートが自分の額にアイリーンの両手を寄せた。
アイリーンの柔らかな指とアルバートの少し硬い指がその体温を分かち合う。
黒髪が夕日を受けて輪郭だけ深い赤銅色に浮き上がる。冷えた鉄が炉の中で熱を帯びるように色づいていく。
夕日は赤橙の髪にも炎を灯し、鮮やかに燃え上がらせていく。
静寂の中で聞こえるのは鼓動の音と、アルバートの腹の底から絞り出すようなため息の音だけ。
「君が、無事でよかった」
触れているのは、指先だけ。
それなのに。
アルバートの額にあてられた指先が熱い。
唇を寄せられるより、熱を感じた。
気高く、優雅に、口づけもない、でも最高に情熱的なシーンを書きたかったんです。
いかがでしたでしょうか。
次回、【第2章最終話:懇願と、女神の審判】
5月23日(土)21時頃更新です。どうぞお楽しみに。
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