2章6話 焼き焦がすほどの忠愛
強い力でアイリーンの体が持ちあげられる。
完全に宙に浮く不安でアイリーンが体を固くした頃には、彼女の体は窓枠を抜けて、アルバートに抱えられていた。
アイリーンの頬にアルバートのシャツが触れる。
腰にしっかり回された手の感触に、アイリーンの頬が熱くなった。
「フィデル! 降りるぞ!」
アイリーンの心臓がうるさい間に、二人の体は地面の上へ降りていた。
両手を組んで見守っていたリリアナが素早く駆け寄って、アイリーンが羽織っていたコートを脱がせる。
「アイリーン様、大丈夫ですか! どこか痛むところは?」
「皇女殿下。ご無事でよかった」
「大丈夫です、二人ともありがとうございま」
アイリーンの感謝はそこで途切れた。
フィデルが頭から血を流していた。それも頭のあちこちから。
当の本人は気づいているのかいないのか、アイリーンに笑顔を向けていて、慌てる様子はない。
「フィデル様! 血が!」
「私は大丈夫です! ご心配いりません!」
「兄の心配は後ですアイリーン様! 式典が!」
リリアナが叫ぶと同時に、楽器隊のファンファーレが聞こえてきた。
順調に式典が進んでいる音にアイリーンは思わず息を飲む。
「行け! まだ間に合う!」
「アイリーン様、失礼いたします」
アルバートの一声でグレースがアイリーンを横抱きで抱えた。
「こちらへ!」
リリアナの先導でグレースはアイリーンを抱えたまま走り出した。泥が跳ねる。
建物と城壁の間を走ってアイリーン達は市民広場側に出た。
市民広場に繋がる城門の前には病院関係者が集まっていた。
誰かが演説しているらしく、ざわめきは少ない。
「お前たち! なぜアイリーン様がいない状態で式典が始まっているのです!」
高位貴族であるリリアナの怒号に下位貴族である病院関係者は頭を下げて震えあがった。
「で、殿下のご指示です。アイリーン皇女殿下は音を聞けばすぐに戻ってくるし、いざとなったら自分が変わりに出るとのことで」
「殿下?」
リリアナが顔をしかめた時。
「アイリーン? 戻ったのかい?」
柔和な声が病院の中から聞こえた。
間をおかずに笑みを浮かべたラグナルが病院関係者の後ろから現れる。
下位貴族達は揃って頭を下げた。それが誰か即座に気づいたリリアナも、慌てて頭を下げる。
アイリーンはグレースの腕から降りてそっと地に足をつけた。
「間に合ってよかった……そのスカートは、どうしたんだ?」
指摘されてはっとしたアイリーン達が視線を向けると、アイリーンのスカートが一カ所、縦に大きく割けていた。
礼拝堂の窓をくぐる時、アルバートが丁寧に窓枠のガラスを砕いた上にコートを着ていたことでアイリーンの体はほぼガラスから守られていたが、一カ所だけガラスにひっかけていた。
パステルグリーンのドレスの間から白いペチコートの布が覗いている。
青ざめた顔でアイリーンが絶句していると、ラグナルの顔が険しくなった。
「怖いことでもあったのかい? よく見たら顔色も悪そうだ。奥で休んだ方がいいかな」
「い、いいえ。大丈夫です。私」
気丈にふるまうアイリーンをラグナルは静かに諭す。
「でも、そんな恰好では民衆の前に出られないだろう? 君のやる気には答えてあげたいけれど、その姿は皇族としての品位が欠けてしまうよ。人に見せるものではない。早く部屋に戻りなさい」
ラグナルの言う通り、割けたスカートで人前に出るのは皇族どころか淑女失格だ。
礼拝堂の絶望を乗り越えてきたはずなのに、アイリーンは今再び絶望に打ちひしがれていた。
――ここまで来たのに。アルバート様とフィデル様が、怪我をしてまで助け出してくださったのに。この目前で、私はだめになってしまうの。
淑女失格でも意地で壇上に上がってしまおうかと考えた時。
「問題ありませんわ」
リリアナが高らかに声を上げ、躊躇うことなく自身の胸元を飾る大きなリボンをむしりとった。
ぶちぶちっと、糸が切れる音が聞こえる。
アイリーンとラグナルがあっけにとられている間に、アイリーンの足元に跪き、割けたアイリーンのスカートに触れてなにかをし始めた。
純白のスカートが土にまみれる。
アイリーンとラグナルは、皇族だ。
いくらリリアナが騎士団長を務めるオースウェル侯爵家の人間だとしても、皇族同士の会話に割り込むのは無礼すぎた。なにかを提案するにしても順序がある。
騎士に剣を向けられてもおかしくない危険な行動にアイリーンは震えた。
同時に、どれだけ自分に熱くて大きい忠義が向けられているかを知る。それはまるで太陽のように巨大で眩しくて、周囲を焼き焦がすほど熱い。
リリアナの愛を疑っていた自分が、酷く小さく思えた。
リリアナは立ち上がると少しほつれたアイリーンの髪を直し、柔らかく微笑んだ。
「アイリーン様はいつも気高くいらっしゃいますわ。どんな時でもです」
アイリーンのスカートに、割けた部分を覆い隠すようにリリアナの白いリボンがつけられていた。
大きなリボンに誤魔化されて、白いペチコートの露出が目立たなくなっている。
たった一つのリボンに、まるで極上の宝石のような重みをアイリーンは感じた。
「これで差し支えないと思われます」
あっけらかんと言い放つリリアナにラグナルは眉を寄せる。
「そんな位置にリボンだなんて、見たことのないドレスデザインだね」
「必要であれば、わたくしが流行らせますわ」
一歩も引かない態度のリリアナにラグナルは灰の瞳を細めた。
「君、どこの家の子だい?」
問われて、リリアナは軽やかにカーテシーを披露する。
「大変失礼いたしました。わたくしオースウェル侯爵家が娘、リリアナと申します」
「……オースウェル騎士団長のとこの子か。覚えておくよ」
「光栄でございます」
「皇女殿下、ご挨拶をお願いします!」
式典担当者が割り込んできた。
ラグナルに一礼してから、アイリーンは演台に向けて歩みを進めた。病院長と入れ替わりに壇上に上がる。
演台の前には、多くの人が詰めかけていた。
前列にいる貴族達は、この病院を建てるために寄付を行ってくれた者たち。
警備の騎士を挟んで後方には市民広場を埋め尽くすほどの市民が集まっている。
集まる視線にアイリーンの体が固まる。しかしそれはほんの一瞬のことだった。
――アルバート様とフィデル様、リリアナとグレースが導いてくれたこの場で、私は失敗などしない。
一つ息を吐いてから、アイリーンは皇族としてこの国で一番美しいカーテシーをした。
その姿は優雅そのもので、直前に監禁事件があったことなど想像させない。
ゆっくり息を吸って高らかに声を上げる。
「皇国にお住まいの愛すべき皆様。
この地に積み上げられた石の一つひとつは、皆様の健やかな日々を願う、わたくしたちの祈りそのものです。病の痛みや愛する者を案ずる夜の不安に、身分の違いなどございません。流れる血の色が皆同じであるように、この場所に宿る救済の光もまた、等しく皆様の心と体を温めるものでありたい。
わたくしは、この病院が皆様の支えとなることを心より願っております」
割れたスカートはリボンで隠し、靴や裾は礼拝堂の埃で少し煤けている。
けれどその姿はどの肖像画よりも気高く光り輝いていた。
貴族も市民も関係なく、わっと会場全体が沸いた。
第2章「初公務編」ついにアイリーンが壇上に立ちました。
「必要であれば、わたくしが流行らせますわ」
リリアナのこの言葉、作者としてもお気に入りの一幕です。
次話【第2章第7話:去り際の毒、亡き母の影】
演説が終わっても、公務はまだ続きます。
次回更新は、5月16日(土)21:00頃を予定しております。
これからも一話一話に魂を込めて参りますので、どうぞよろしくお願いいたします!
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