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1章2話 貴方とはもう歩かない


「ヴェルストラーテン公爵令息は自分から辞退しに行ったそうよ」

「いつ正式発表されるのかしら」


 あの翌日、アルバート・ヴェルストラーテンがアイリーンとの婚約を辞退するという噂は、瞬く間に国中の貴族に知れ渡った。


 噂される言葉の数々は棘のようにアイリーンの心に刺さる。

 このグランディヴェル皇国において、未婚の皇族はアイリーンと叔父のラグナルだけなため、アイリーンの婚約話は貴族たちが一番気にする話題だった。


 傷心の心に追い打ちをかけたのは、数日後に控えた貴族学院への入学だ。

 周囲の視線を思うだけで、息が詰まりそうになる。


 もう、以前のようには話せないと理解していた。


 つい数日前までは、アルバートと会う機会が増える貴族学院入学を楽しみにしていたから、尚更つらい。


 涙は出なかった。

 ただ、大事な何かが欠けたまま戻らない。


 アイリーンは暗い気持ちで学院生活初日を迎えた。



***



「ではいってまいります」

「いってらっしゃいませ皇女殿下」


 侍女たちに見送られてアイリーンを乗せた御者付きの馬車は宮殿を出発した。

 城内の長い道を越え、学院までの短い道を走る。


 馬車の中だけは、彼女が一人きりになれる場所だった。


 はあ、と小さくため息をついて、窓の外を見つめるアイリーンの表情は憂鬱そのものだった。

 ふと、手鏡で自分の顔を見る。


 表情は十分に回復していた。侍女たちが丁寧に結ってくれた赤橙(せきとう)の髪も完璧である。

 それでもこれからの学院生活が憂鬱なのは変わらない。


 ――帰りたい。でも、初日から欠席する皇女なんてありえない。


 亡き母のため、そして今も一人で戦い続ける父のため、次に国を守る皇族として情けない姿なんて見せられるわけがなかった。


 今、アイリーンは婚約辞退されてしまったかわいそうな皇女様、というレッテルを貼られてしまった。

 未来を背負う皇族として、今まで以上にアイリーンは威厳を見せる必要がある。


 馬車は短い移動を終えて煉瓦造りの貴族学院の敷地に入った。

 揃いの白い膝丈のプリーツスカートや白い詰襟制服に身を包んだ少年少女たちの姿が窓の外に見え始める。


 建物入口の正面に馬車が止まり、扉が開いた。


「お迎えにあがりました、アイリーン殿下」


 扉の外から聞こえてきた声にアイリーンは固まった。プライベートだったあの時とは違う、外行き用の口調と声。

 胸が反射的に跳ねた。瞬間、痛みごと記憶が戻ってくる。


 ――なぜ、あなたが。


 考えられるのはそれだけ。


 開いた扉の向こうで待っていたのは、今一番会いたくない人物のアルバート・ヴェルストラーテンだった。

 今日も綺麗に整えられたオールバックの黒髪に白い学生服が眩しい。


 当然のように彼は笑顔で手を差し伸ばしてきた。


 一瞬だけ。本当に一瞬だけ、指が動いた。

 その手を取れば、あの日の言葉を忘れて、また昔のような関係に戻れる気がした。


 けれど両手が膝から離れることはなかった。


「どう、されたのですか。朝から、このような場所で」


 絞り出された声は固い。少し俯いた顔には影がかかっていて表情がよく見えない。両手は膝の上でしっかりと上品に揃えられている。


 生徒たちの中で、恐らく一番位が高いだろう彼が迎えに来るのはおかしな話ではなかった。あの話が、出るまでは。


 ――どうしてまだ優しくするの。どうしてまだ微笑むの。貴方は、私と添い遂げてはくれないのでしょう?


 今日までの数日、アイリーンはあの言葉の意味を沢山考えた。考えて考えて考えて、受け入れた。


 ――前に進もうと、しているのに。どうして貴方が邪魔をするの。まるで、弄ぶみたいに。


 アイリーンはわずかに顔をあげた。訝しげに翠緑(すいりょく)の瞳がアルバートを映す。


 ――喉が、ひどく乾く。


「ヴェルストラーテン公爵令息様」


 その言葉にアルバートの瞳が見開かれた。


「……申し訳ありません。学院内の護衛をご紹介したく、ここまで来てしまいました」


 貴族の笑顔をはりつけて馬車の戸口から一歩脇に移動した彼は振り返って、グレース、と呼びかけた。

 彼の背後から現れて新たに馬車の戸口に立ったのは、背が高く、アルバートと同じ黒髪の少女だった。まっすぐ視線を向けてくる瞳はアルバートと違って黒い。黒髪を肩先で切りそろえ、規定通りの膝丈プリーツスカートから伸びる足はしなやかな筋肉が見て取れる。


 腰に下げた仕込み槍が、異質な存在感を持っていた。

 刃のような少女だった。


「遠縁のグレース・セリヴァンです。学内ではこの者を護衛と思って傍にお付けください」

「わかりました」

「学内の居室も、既に整えてあります」


 そこまで言って、馬車の横でアルバートは顔を歪ませた。


「では……私は、これで失礼いたします」


 馬車の外から聞こえる別れの言葉に体を固くしてアイリーンは答える。


「ご苦労様でした。ヴェルストラーテン公爵令息様」


 去っていく足音が聞こえる。膝の上に置いた両手は細かく震えていた。


 ――もう、あの頃には戻れない。貴方が、そう言ってきたのだから。だから私は、貴方とは歩かない。もう、前みたいに呼ぶこともない。


 アイリーンはもう、その後ろ姿に視線さえ向けはしなかった。




***




 アルバートは、足早に歩いていた。そのただならぬ雰囲気に、行き交う生徒達は皆道を譲る。

 教室棟を抜けて、今は誰もいない中庭に出る。そこをさらに抜けて、彼は一人、礼拝堂の裏まで移動した。躊躇うことなく、防風林の中に入っていく。


 豊かに茂った防風林の中は薄暗かった。誰の視線もなくなったところで、ようやく彼は感情を顕にする。

 側にあった木を、ありったけの力で殴りつけた。

 木の幹に、拳がめり込む。一拍遅れて、血が流れた。


「くそっ……」


 吐き捨てても、気持ちは晴れない。

 ぐちゃぐちゃの心を痛めつけるように、彼は木の幹を殴り続けた。


 アイリーンにとってもらえなかった手は、あっという間にぼろぼろになった。


 ――当たり前だ。傷つけたのは、他でもない俺なんだ。


 初めて向けられた懐疑的な冷たい視線が、脳裏にこびりついている。


 あの日、サロンを出てから、アルバートはまともに眠れていなかった。


 あれ以降、アイリーンは何日も落ち込んでいたと情報を得ている。それだけ落ち込ませて、今更出迎えだ、なんてアイリーンが戸惑うのも無理はなかった。


 どこかで彼は慢心していた。多少突き放すことを言っても彼女は変わらず慕ってくれるだろうと。


 自分が落とした爆弾がどれだけ彼女の心を焼いたのか。その焼野原の悲惨さを彼は身をもって痛感した。


「これが、嘘の代償か」


 ぽつりと零したところで、鐘が鳴った。


 ――試験が始まる。受けなければ、汚点になる。無様な成績は残せない。これからも、アイリーンの婚約者候補でいるために。


 拳に滲む血を拭い、アルバートは教室に急いだ。




***




 暗い部屋の中で、報告を受けた灰の瞳の男は小さく笑う。


「アルバートはもういいな。二人まとめて潰すつもりだったが、計画は変更だ……まずはあの小娘に挫折をプレゼントしようじゃないか」


 その声には、嘲りよりも勝利への確信が滲んでいた。

読んでくださりありがとうございます。

次話、もう一人の個性派護衛が合流し、アイリーンの周囲が少しずつ変わり始めます。

【第3話:騎士も姫も、甘くない】本日21:00頃更新。


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― 新着の感想 ―
ほう…「計画」とは、婚約破棄にも関わってきそうですが…
前より不穏さが、ドアを蹴破って入ってくる感じじゃなくて、静かにお茶へ毒を落としてくる感じになりましたね。「犯人は誰だ!?」って強烈な引きも好きでしたが、今回は不穏の出し方が少しおしとやかになってて、こ…
蓋を開けてみれば、見事なまでのすれ違い……? 色々な策略の中で物語がどう動いていくのか楽しみです ブクマさせていただきました、続きも読んでいきます
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