1章1話 冠を掴む日と恋が死んだ日
春の終わりの森の静寂。
冷たい鉄の銃口は彼女の胸に向けられていた。
撃鉄が上がる乾いた音が宣告のように響く。
一回りも年下の小娘に、これほど苦しめられることになるとは彼は思っていなかった。
もっと早く、難しいことは考えずにこうして置けばよかったんだ、と彼は笑った。
「お前を殺せば、俺が次の皇帝だ」
それは、家族"だった"者の声。
銃口を向けられても、彼女は逃げない。
――怖くないと言えば、嘘になる。でも。
「どうぞ、撃ってください」
ただ、彼女はまっすぐ立っていた。
翠緑と灰の瞳がぶつかり合う。
「それでも、次の皇帝になるのは、私です」
***
入学七日前。
それまで、アイリーンはただ恋をしていた。
「心に留める人ができたら、できるだけ早く教えてくれ。
君が選んだ奴なら私は応援するし、協力を惜しまないよ」
うららかな昼下がり、宮殿のプライベートサロンはその一言で空気が凍りついた。
今年十五歳になる皇女、アイリーン・グランディヴェルはその発言の意図が読み取れず、
返す言葉を見つけられない。
親譲りの整った容貌は表面上ただ驚いているようにしか見えなかったが、
翠緑の瞳は不安げに揺れていた。
綺麗に手入れされた長く緩やかに波うつ赤橙の髪が窓から入ってきた風に揺らめく。
アイリーンも侍女たちも、サロンにいる全員が驚きで動きを止めていた。
そんな空気の中、黒髪を大人顔負けのオールバックに仕上げたアルバート・ヴェルストラーテンは、切れ長の紅い眼を伏せて優雅に紅茶を飲んでいる。
アルバートの声は不自然なほど優しかった。まるで、自分に言い聞かせるように。
「……頼むよ、アイリーン」
だからこそ、残酷だった。
なぜ、どうして、と問いは喉の奥で潰れる。
他の人の応援なんてしないで、と
わがままを言えたらどんなに楽だろうと心の中でアイリーンは嘆いた。
お従兄さまと、子供の頃のように呼んで縋りたい気持ちを必死に抑える。
体の冷たさに加えて、彼女は全身で侍女たちの視線を感じていた。
同じ部屋にいる侍女たち全員が、固唾をのんでアイリーンがどう返答するかを待っている。
彼女たちには皆、家の属する派閥がある。その耳は常に各派閥の重鎮たちにつながっている。
皇族は常に品位を保たねばならない。
子供の頃から叩き込まれてきた教えは、こんな時でもアイリーンをパニックから引き戻していた。
こんな人前でその発言をして、どうなるかわかっているのですか。
アルバート様。
目の前で優雅にお茶を飲むアルバートをアイリーンは見つめる。
アルバートの端正な顔に気負った様子はみられない。
もうこちらを、見てもくれない。
顔ばかり見ていたアイリーンは気づかなかった。
――後になって知る。あの時、彼の手先が小刻みに震え、力の入れすぎで白くなっていることに。
けれど今のアイリーンには、それを見る余裕などなかった。
彼女は馴染みの深い宮殿のプライベートサロンに目を向ける。
ここで、何度もお茶をした。ダンスの練習だって、ここだった。
たくさん話をした。ミスもたくさんした。ダンスの練習ではしょっちゅう足を踏んでしまった。
それでも、いつだって彼は大丈夫と笑っていてくれたのに。
母と祖父母を一度に失った七年前。
あの時も、泣きじゃくる私の傍にいて手を握り続けてくれたのは彼だった。
翠緑の瞳を涙でいっぱいにしながらアイリーンは笑みを浮かべた。
けれどそれは笑顔というにはあまりに悲痛で、
水面に揺れる月影のように触れれば崩れてしまいそうな脆い微笑だった。
「アルバート様が、そうおっしゃるなら」
この片想いは実ると信じていた。
崩れるなんて、考えたこともなかった。
信じて疑わなかった未来が、砂のように崩れて手の平からこぼれ落ちていく。
片想いがこんなにあっけなく終わるものだと、彼女は知る。
彼女の中で恋が死んだ。
お読みくださりありがとうございます。
恋心を胸の奥に封じたアイリーン。
けれどこの終わりこそが、彼女が「女帝」へと歩み出す最初の一歩です。
本作はすでに完結まで執筆済みですので、どうぞ安心してお読みください!
次話、再会する二人。
けれどアイリーンはもう、彼の知る彼女ではなく…
【第2話:貴方とはもう歩かない】本日12:00頃に更新予定です。
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