1章14話 王城の狂騒、嫉妬の焦燥
学院にいられるぎりぎりの時間までアイリーンはカシアンの論集に目を通していたが、読み終わることはできなかった。それなりに重さのあるカシアンの論集を鞄にいれて帰路につく。
城に帰ると自室に戻ったところで彼女は息の荒い武闘派の侍女達に囲まれた。
「いかがでしたか!? フィデル様は!」
「見事な体躯でしたでしょう? デビュタント前とは思えない筋肉でしたでしょう?」
「お二人の仲が近づいて、私たちとても嬉しゅうございます!」
なんの話をしているかわからず、アイリーンは目を瞬かせた。
反応のない主に侍女たちも首を傾げる。
「本日、階段から落ちそうになったアイリーン様を、フィデル様がお助けしたとお聞きしましたが……」
言われてアイリーンは思い出した。
確かにそんなことがあった。
図書棟の一件から頭がカシアンの論集で一杯だったアイリーンは、慌てて肯定する。
「ええ、危ない所を助けていただいたわ」
会話をしながらも侍女たちはテキパキとアイリーンを着替えさせていく。
「フィデル様は素敵な方でしたでしょう?」
「え、ええ」
「嗚呼! 陛下が守り抜かれたこの城に新たな騎士の王が誕生する予感がいたします!」
侍女の芝居がかった言葉にアイリーンは固まった。
「アイリーン様を軽々抱き上げて愛を囁くフィデル様に、その逞しさに頬を赤らめるアイリーン様!」
「階段の上で見つめ合う二人はもう誰も入り込めない二人だけの世界だったと!」
――そんなことは起こっていない。
侍女たちに悟られないよう、アイリーンは心の中で長いため息をつく。
早速、話は良いように誇張されて伝わっているようだった。
「どうでしたか? 恋の始まりは?」
キラキラした目の侍女たちに詰め寄られてアイリーンは困った。
――これは訂正して受け入れられるのかしら。
答えは否。
吉報を信じ、ここまで興奮していたら、彼女たちはもう何を言っても無駄だろう。
「ど、どきどき、した、かし、ら?」
その答えに侍女たちは歓声を上げた。
嘘ではないが嘘を言ってしまった、とアイリーンは途方に暮れる。
フィデルに抱き上げられて心臓がうるさかったのは事実だが、それは落ちるかもしれないと思ったからであって、侍女たちが期待しているようにフィデルに恋心を抱いたからではない。
フィデルに異性として魅力がないわけではない。
彼の背丈もたくましい体も騎士として頼りがいがあるし、頼もしいと思っている。
が、それだけだ。
会うだけで嬉しくなったり悲しくなったり、動揺してしまうアルバートに対して抱く心は、やはり恋に近いものではないかとアイリーンは思う。思うが、恋だと胸をはれるほどの自信はない。
――幼い頃のときめきを恋心と勘違いされているのではありませんか?
エリスの声が蘇る。
物心ついてからずっと抱いてきた恋心を土台から否定された影響は大きかった。
「アイリーン様」
恋とは何かについて考え込んでいると、アイリーンに侍女が一人そっと、二人で話したそうに近づいてきた。
彼女は王党派の侍女だ。顔色を悪くしながらちらちらと振興派の侍女達を見ている。
アイリーンは苦笑してみせた。
「少し、大げさに話が伝わっているみたい」
「そうですよね? 全く、武闘派の皆様はすぐ熱くなられるんですから」
あからさまに安堵する侍女を見て、アイリーンは不思議に思う。
彼女はこれまでアイリーンの婚約者の話題になった時、誰と婚約されるかは時期が来たらきちんと陛下がお決めになってくださいます、と周りの侍女達を宥める役目の人だった。
あれは方便で、王党派が優位な状態だったからそんなことを言える余裕があっただけのようだ。
派閥って大変ね、とアイリーンが他の侍女を見ると中立派は我関せず、振興派の面々に至っては顔面蒼白で仕事をしていた。
私、今日はカシアン様にもお会いしたのだから、振興派の人達もそんなに落ちこまなくてもいい気がするのだけど。
アイリーンはそう思って、はっと思い出した。
――カシアン様の論集!
普段の流れで入室と同時に鞄ごと侍女に預けてしまった。慌てて鞄を探すとそれはアイリーンの文机の上に静かに置かれていた。
アイリーンは素早く近寄り、鞄を胸に抱える。
ずっしりとした重さが、まだ中に論集があることを知らせてくれた。
「アイリーン様? どうかいたしました?」
「そういえば今日は随分鞄が重かったです。本、ですか?」
「まさか! お手紙とか」
行動を不審がった侍女たちが口々に問いかけてくる。
アイリーンは冷や汗を浮かべた。ここで中身がカシアンの論集だと知られてはいけない。
もし知られてしまったら、なにがあったのか詳細に聞きたがる振興派侍女と、フィデルはどうするのかと問い詰めてくる武闘派侍女、今度こそ希望を失って屍と化す王党派の侍女で、この部屋は修羅場と化すだろう。
「これは、私の個人的な調べ物です。お父様のところで続きをして参ります」
余所行きの笑顔で取り繕ってアイリーンはそそくさと自室を飛び出した。
***
自室に帰ったアルバートは扉を閉めるなり悪態をついて持っていた鞄を暗い床に叩きつけた。
「横抱きなんて、俺だってもう何年もやってないことをフィデルのやつ!」
荒く息をついて、苛立ちのまま頭をかきむしる。綺麗になでつけられていた黒髪が乱れた。
もう貴族中が、アイリーンとフィデルの噂で浮足立っている。
自分以外の男がアイリーンに触れたという現実が彼の全身を引き裂いていた。
もう全て投げ出して彼女のところに戻りたい激情を理性で無理矢理抑えつける。
息を乱して、彼は机の上の手紙の山を見た。
彼の元には今二種類の手紙が届いている。
婚約辞退なんて尚早すぎる、という手紙と、英断だという手紙。
思い留まるよう説得する手紙の方が圧倒的に多かったが、未来を見据えた良い判断だと褒める手紙も、決して少なくはなかった。
その手紙を送ってきた者たちの名前は、全て記憶に刻みこんでいる。
自分の行動は無駄ではなかった。効果は出ている。とアルバートは自分に言い聞かせる。
同時に「ヴェルストラーテン公爵令息様」と呼ぶ冷たい声を思い出した。
もうアイリーンの隣に自分の居場所はない現実が、彼の切り刻まれた体に塩を塗り込むような痛みで染み込んでいく。
あれだけ拒絶の態度をとられてしまった今、さらにあの態度の彼女に会いに行ったら、自分が何をするかわからなかった。
アルバートは自分の前で穏やかに笑っていてくれた頃のアイリーンを思い出す。
――もう一度、あの夕日色の髪に触れたい。もう一度、森を沈めた瞳を独占したい。アイリーン。君に会いたい。
――そのために。あの男を、一日でも早く表舞台から引きずり降ろさなければ。
暗い部屋で紅い瞳だけが静かに光っていた。
噂の飛躍とは恐ろしいものです。
そしてどんどん余裕がなくなっていくアルバート。
次話は話が戻ります。
【第15話:一晩の読破、心拓く図面】 本日21:00頃に更新予定。
彼をぶちのめしに参りましょう。
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