1章12話 黒髪の残影、階段の空転
翌朝、アイリーンは城から焼き菓子を持ってきていた。
エル・ドラドール自治領という、歴史と文化が独特な南の地域の珍しいお菓子で、
アイリーンは護衛の二人が喜んでくれる姿を想像するだけで心が弾む。
早足になりそうなのを抑えながらアイリーンはリリアナ達と教室からサロンへ移動する。
教室棟の中央にある大階段に差し掛かった時、上階から現れたのはフィデルだった。
アイリーンを見つけたフィデルは目を輝かせ、即座に体勢を低くする。
「お兄様!」
リリアナの一喝が飛んだ。跪く寸前のところでフィデルが固まる。
数秒の苦悩の上、フィデルは立ち上がると素早く階段を下りてきた。
アイリーン達を通り過ぎ、下がり階段を何段か下がったところで振り向く。
「ごきげんよう皇女殿下。
本日も太陽が色褪せるほど御身は麗しく、目がくらむほどでございます」
数段下から向けられた満足そうな笑顔にアイリーンはこらえきれずに笑い声を漏らした。
その背後でリリアナが大きくため息をつく。
「お兄様、その眩暈は単なる貧血ではなくて?
アイリーン様への賛辞に語彙を使い果たして、脳に血が回っていないのでしょうね」
今日もリリアナは兄に容赦がない。
「ごきげんようフィデル様」
「アイリーン様もご昼食ですか? 食堂までご一緒してもよろしいでしょうか」
「では、参りましょうか」
「は!」
元気よく答えるフィデルにまた笑いを漏らして、アイリーンは階段を降り始めた。
フィデルが先導する形になる。
「貴族学院のお食事は皇女殿下の舌にあいますか?」
「ええ。城での食事はいつも一人なので、
みなさんの話し声を聞きながら食堂でとる食事はおいしいです」
他愛ない会話をしていた時。
ふとアイリーンの視界の端、柱の陰に黒い髪の人物が現れた。
黒髪の人物で思い当たる人なんて一人しかいなくて、アイリーンは反射的にそちらの方向を見る。
そこでアイリーンは階段を踏み外した。
ふっと、アイリーンの体が沈む。
赤橙の髪が宙に浮く。
グレースはアイリーンが突然視線を向けた方向を警戒したせいで反応が遅れた。
リリアナは即座に反応して手を伸ばしたが、しっかりと体を支えられるほどアイリーンの体に手を回せなかった。
落ちる。
恐怖にアイリーンが息を詰まらせた瞬間。
フィデルがその微かな音を聞き取って振り返った。
目に飛び込んできた光景を見て、コンマ一秒で状況を理解する。
気づけば、アイリーンはフィデルに抱きかかえられていた。
大木のような太い腕は危なげなく彼女を抱えている。
「大丈夫ですか、皇女殿下」
爽やかにフィデルが笑う。
一部始終を見ていた周囲の令嬢たちが黄色い歓声を上げた。
「大丈夫ですかアイリーン様!」
「さすがですお兄様」
リリアナとグレースが駆け寄ってくる。
「申し訳ありません。私がお守りすべきでしたのに」
「足を踏み外した私が悪いのだから、気にしないで」
グレースを宥めながらアイリーンはそっとアルバートがいる方向に視線を向ける。
が、柱の陰からでて来たのは濃い茶髪の全く違う少年だった。
み、見間違いで、階段を踏み外したのね私……
アイリーンは恥ずかしさのあまり顔が赤くなる。穴があったら入りたい気分だった。
「ありがとうございますフィデル様。助かりました」
恥ずかしさをかみ殺しながら御礼を言うと、フィデルは嬉しそうに笑った。
そっとアイリーンを階段に降ろす。
周囲が再び色めき立った。
「皇女殿下にお怪我がなくてよかったです」
気づけば、周囲の貴族は全員がアイリーン達に注目していた。
特に令嬢たちは頬を染め目を輝かせてこちらを見ている。
四人は足早にその場を移動した。
「アイリーン様、もしかして体調がお悪いですか?」
教室棟から出て、食堂に続く回廊に差し掛かったところでリリアナがそっと尋ねてきた。
顔は心配そうに曇っている。
「ち、違うの。そうじゃなくて……」
アイリーンは口ごもった。ミスの原因を白状するのは恥ずかしい。
けれど、うまい言い訳も思いつかない。
「アルバート様が……いると思ったの」
観念し、リリアナにだけ聞こえる小さな声でこぼすとリリアナは絶句した。
心配そうだった目が一瞬で呆れかえったものになる。
「そんなにお会いしたいのでしたら、お連れいたしましょうか?」
リリアナの提案に、アイリーンは即座に首を振った。
「……今度からは、お気をつけくださいましね」
リリアナの言葉に、アイリーンは黙って小さく何度も頷き返した。
前話の重苦しい空気はどこへやら、アイリーン様が盛大にやらかしました。
フィデルの騎士っぷりを少しだけ書けて満足です。
次話、ついに振興派代表の彼が参戦します。
【第13話:微笑みの下の小さな火花】本日21:00頃に更新予定。
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