1章11話 美化できない、血の記憶
男女様々な人の悲鳴と、慌ただしく廊下を走る音、何かを落とした金属音が聞こえて、彼女は目を覚ました。
普段の静かな宮殿の朝と違って寝室の外がとても騒がしかった。
いつも侍女が開けてくれるはずのカーテンも閉じたままで、部屋の中がとても暗い。
眠い目をこすりながらなんだか騒がしい廊下に向かう。
重い扉を何とか開けると、部屋の外は嵐のような惨状だった。
侍女たちは泣きわめきながら彷徨い騎士は血相を変えて怒号を飛ばしている。
誰が落としたのか、床には朝の支度道具が散乱したまま放置され、普段の優雅な宮殿の姿はどこにもなかった。
何が起こっているのか理解できず彼女が立ち尽くしていると、彷徨っていた侍女の一人がその存在に気づいた。
「アイリーン様!?」
ほとんど悲鳴の声が宮殿に響く。
その瞬間、廊下にいる大人全員が彼女を見た。
無数の目が彼女に向けられる。
その顔は驚愕に満ちているのと同時に、異質なものを見るかのようで。
はっと、アイリーンはそこで目を覚ました。
見慣れた寝台の天蓋が目に映る。ゆっくりと体を起こすと、額から汗が滑り落ちる。
久しぶりに見た、七年前の夢だった。
エリス様に言われたからかしら。
アイリーンは一つため息をつくと、寝台から外に出た。
閉じられていた窓を開け、まだ高い位置にある月を見上げる。
七年前、アイリーンは母と祖父母を一度に失った。食事への毒物混入、という調査結果だけが冷たく残された。
生き残ったのは若く体力のあった現皇帝とその弟ラグナル、そして子供用の別料理を食べていたアイリーンの三人だけだった。
皇帝はその時の後遺症で今も片足を引きずっている。
叔父のラグナルは、結婚相手を探す暇もないほど公務に明け暮れている。
成人皇族全員が突然倒れ、城内が大混乱に陥る中、即座に城に駆けつけて四六時中アイリーンに付き添ってくれたのが伯母のパトリシアと従兄のアルバートだった。
今もあの時の記憶は苦いものとしてアイリーンの中に残っている。
事件直後も母の死後も、パトリシアとアルバートが献身的に支えてくれたからアイリーンは立ち直れた。
それを美化していると言われるのは我慢がならない。
振興派の代表として来たエリスの発言は、振興派の貴族達の思考につながる。
国内貴族の中にヴェルストラーテン一家を軽んじる思考があるのは、あまり良いこととは思えなかった。
私は、何ができるのかしら。
柔らかな月灯りを浴びながらアイリーンはため息をついた。
アルバートもヴェルストラーテン公爵も、聡明で洞察力に優れ、判断力に富んだ人物である。
国内貴族の動向は既に把握しているはずで、アイリーンが忠告しても今更なのが予想できた。
それでも、何もしないのは嫌。
どうすれば私の情報を、アルバート様の功績につなげられるのかしら。
アルバート様の婚約辞退は、反勢力をコントロールするためのものだった、のよね。
ヴェルストラーテン公爵家は代々の当主が宰相で、現公爵婦人は降嫁した元皇族だ。
その上息子が王配として皇族入りするとなったら、確かに反発する貴族は多そうだとアイリーンは考えた。
アルバート様との婚約を実現するには、そこが課題なんだわ。
リリアナの情報が正しければ、アルバート様は今それを解決しようとしてくれてるはず。
……もう少し、私を頼ってくれてもいいと思うのだけれど。
アイリーンは窓の向こうの月を見つめる。
情報が命のこの社会だから、信じる情報は精査しなければいけない。
自分に不利な情報を切り捨てることも、都合の良い情報にとびつくこともしてはいけない。
疑うことを忘れた者から足を掬われるということを、アイリーンは知っている。
今日も、リリアナの様子におかしなところはなかった。グレースも。
怖いぐらいの静寂の中、目を閉じてアイリーンは祈る。
どうか、リリアナの言葉が真実でありますように、と。
幼いアイリーンが目にした、混乱に染まった宮殿の記憶。
彼女にとってアルバートはただの初恋の相手ではなく、
地獄のような日々の中で差し伸べられた「唯一の救い」でもありました。
次話、少し毛色が変わります。
【第12話:黒髪の残影、階段の空転】明日9:00頃に更新予定です。
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