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第三十三片 砕けた月と、白湯のゆくえ


 冷たい井戸水に指を浸したとき、手の中でこつん、とひどく間抜けな音がした。

 縁が欠けて、すっかり茶渋の染み付いていた愛用のコップが、たらいの底で真っ二つに割れていた。ただ洗おうとして、ほんの少し指の腹で力を込めただけだったのに。

 寿命だったのだろう。わたしが毎朝、ほんのわずかな魔法の余熱を底から注ぎ込んで、白湯という無色の熱を沸かし続けていたせいで、安物の土のうつわは内側から見えない疲労を溜め込んでいたのかもしれない。


 水底に沈んだふたつの欠片は、光の消えた濁った月長石のように、ただの冷たい石くれに戻ってしまっていた。


 新しいものをどう用意するのか考える。

 一番簡単なのは、一階の厨房へ行き、あの静かで美しい女将さんに事情を話して、客用の木組みのコップをひとつ分けてもらうことだ。銅貨を余分に払えば、彼女はきっと灰色の瞳を細めて、嫌な顔ひとつせずに戸棚の奥から予備を出してくれるだろう。

 女将さんと同じ色の瞳で笑う娘さんなら、わざわざわたしの部屋まで持ってきてくれるかもしれない。


 けれど、たったそれだけの行為が、わたしと他者とのあいだに強固な結び目を作ってしまう。困ったときに頼り、便宜を図ってもらうという、あたりまえの生活の貸し借り。

 それをしてしまえば、わたしはもう、この宿屋のただの透明な影法師ではいられなくなる。誰かの善意を受け取ってしまえば、いつか必ずそのお返しをしなければならない時が来るから。


 ――人通りの多い昼下がりを避けて、空が鈍い鉛色に沈み始めた夕暮れ時に街の広場へ向かう。

 冷たい風が石畳を吹き抜けていく。広場の片隅で、農具やガラクタに混じって日用雑貨を並べている、埃っぽい露店の前で立ち止まる。


 そこには、不格好な陶器がたくさん並んでいた。魔法の炉で作られた均一な製品ではなく、たぶん、どこかの不器用な職人が土をこねて、炎の気まぐれに焼かれたものたち。

 息を潜めて、店主と目が合わないように下を向きながら、ずらりと並んだ器を眺める。


 適当な安いものを、目を瞑って掴んで帰ればいい。それなのに、わたしは筵の前でしゃがみ込んだまま、ひどく思い悩む。

 どうしてこんなに迷っているのか、自分でもよくわからなかった。


 かわいいものを選びたい。もとの世界では、そんなふうに日用品を眺めていたっけ。


 いまのわたしはただの通りすがりの、銀河のちりあくたみたいな存在だけれど。それでも、透明な白湯を満たすためのちいさな空洞を、わたしはちゃんと自分で選びたかったのかもしれない。


 指先でいくつか触れてみて、ふと、ひとつのカップで手が止まる。縁がすこしだけ歪んでいて、表面には、夜明け前のすきとおった空みたいな、あるいはひかりの素足が通り過ぎたあとの川底みたいな、淡くて鈍い青色の釉薬がかかっていた。

 両手でそっと包み込むと、それはわたしの手の形に、不思議なほどしっくりと馴染んだ。



 「これ、ください」と、消え入るような声で言って、銅貨を数枚、布の上に置く。声を出して、思った。しゃべることそのものが、ほんとうにへたくそになっている孤独感。

 心の奥底の力に向かって、恨み言を吐きたくなる。言語チート、どこにいったの。って。

 店主の老人はなにも言わず、ただこくりと頷いて、古新聞みたいなざらざらした紙でそれを包んでくれた。



 重い鍵を二つ閉めて、いつもの部屋へ帰り着いた。

 新しくやってきた青いカップをたらいの井戸水で何度もすすぎ、土の埃を落としてから、わたしはいつものように水を張り、両手に馴染むそのうつわを包み込む。


 ほんのわずかな、極小の熱の明滅。

 分厚くて歪な土の壁を通して、じわじわと無色の熱が伝わってくる。新しく作られた土の気孔から、かすかに雨上がりの地面のような、青臭い泥の匂いが立ち昇った。


 ふちの厚い部分に口をつけ、温めた白湯を喉に流し込む。

 割れてしまった、前のうつわと異なる感触。明日にはすぐに慣れてしまうであろう、いまだけの違和感は、わたしがこの世界で新しく選び取ってしまった、ささやかな重みのひとつだった。


 身に余る力を宿している自分のことがほんとうに好きになれなくて、それでも白湯を温めたり手荒れを治すことには都合よく利用して。

 どこまでも不格好でいびつなうつわそのものであるわたし。


 飲み下した白湯が、のどの奥から胃の腑へ、熱くて確かな重さとなって落ちていく。

 星めぐりの軌道から外れて、どこにも行けないわたしだけれど。

 こうやって何かを選んで、指先で触れて、さみしい引力に引かれながら明日を待つことだけは、自分に許していいのではないかと、ときどき思っている。






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