萬里花の視察
港町の潮風が、一級建築士事務所の入り口を揺らす。
昼の「補給」を終え、ようやく人間らしい思考を取り戻して図面に向かっていた僕の前に、その「非日常」はあまりに唐突に現れた。
黒塗りの高級車が事務所の前に止まり、周囲を威圧するようなSPたちが整列する。
そして、かつてと変わらぬ――いや、より一層研ぎ澄まされた気品を纏った女性が、ゆっくりと車から降り立った。
「ごきげんよう、零様。ずいぶんと……健やかな『獣』の目をされていますわね」
常磐萬里花。
今や政界にまでその影響力を広げている彼女が、なぜこんな辺境の事務所に。
僕は呆然と立ち尽くしたが、隣にいた陽葵は、動じることなく彼女を迎え入れた。
「……萬里花さん。お久しぶりです」
事務所の奥、潮騒が聞こえる応接スペース。
萬里花は僕たちの顔を交互に見つめ、ふっと唇を綻ばせた。彼女の鋭い審美眼は、僕たちの肌の質感や、空間に漂う微かな「共鳴」の残滓を、一瞬で見抜いたに違いない。
「お二人とも、相変わらずですのね。一日に三度も、お互いを貪り合っていらっしゃるとか」
「なっ……! なんでそれを……」
思わず声を荒らげた僕を、萬里花は扇子(を模した現代的なデバイス)で制する。
「私を誰だと思っておいでですの? 貴方たちがどれほどの『供給量』を必要とし、それをいかに完璧に補い合っているか。その満足しきった細胞を見れば、数えるまでもありませんわ」
彼女の言葉には、かつてのような執着や狂気はなかった。
あるのは、自分には到底辿り着けなかった「境地」に対する、どこか清々しいまでの肯定だ。
「本当、馬鹿げた適合率ですわ。愛だの約束だのという言葉が、あまりに稚拙に聞こえるほど、貴方たちは剥き出しで、救いようがない。……でも、だからこそ」
萬里花は立ち上がり、窓の外に広がる海を見つめた。
「だからこそ、貴方たちはこの世界で、誰よりも『生きて』いらっしゃる。その強欲なまでの生への執着を、私は誇らしく思いますのよ」
彼女は短く視察を終えると、最後に僕の肩にそっと触れた。
かつての「絡みつくような重圧」はもうない。
「零様、陽葵さん。その『日常』を、死ぬまで貫き通してご覧なさい。……それが、私を振った貴方たちに課せられた、唯一の義務ですわ」
去り際の彼女の笑顔は、かつて十年前の約束に縛られていた少女のものではなく、現在という瞬間を生きる一人の勝者のものだった。
車が走り去った後、僕と陽葵は顔を見合わせた。
「……見抜かれちゃったね、零くん」
「ああ。……でも、悪くない気分だ」
僕は陽葵の腰を引き寄せる。
萬里花に祝福(あるいは呪い)を更新された僕たちの本能は、早くも次の「夜」の到来を待ちわびて、静かに、しかし激しく脈打ち始めていた。




