凪の平穏
事務所の窓から見える港の景色に、一隻の白いクルーザーが吸い込まれていく。
萬里花が去って数日。あの嵐のような「視察」の余韻がようやく消えかけた頃、再び僕たちの日常の扉を叩く者がいた。
「……失礼する。定期連絡と、少々の護衛を兼ねて参った」
そこに立っていたのは、黒いスーツを隙なく着こなした凪冴だった。
かつて瑛理香の影として、冷徹に僕を観察し、時には刃を突きつけてきた彼女。しかし今の彼女の瞳には、あの頃の刺すような鋭さはない。
「冴さん。わざわざこんな遠くまで……」
「お嬢様……いえ、鳳代表からの伝言だ。『そっちの調子はどうだ』とな。それと、これを」
彼女が差し出したのは、最高級の栄養剤と、いくつかの公的な書類。僕と陽葵がこの町で平穏に暮らすための、文字通り「盾」となる書類だった。
陽葵は慣れた様子で冴を招き入れ、茶を出す。冴はその無機質な動作で茶を啜りながら、じっと僕と陽葵を見つめていた。その視線は、かつてのように僕の「反応」を解析するものではなく、ただそこにある「事実」を確認するような、穏やかなものだった。
「……やはり、変わっていないようだな」
「え?」
「貴殿らの周囲に漂う、この空気だ。むせ返るような、生々しい生命の匂い。以前の貴殿は、中身のない空洞のようだったが……今は違う」
冴はそう言って、わずかに口角を上げた。感情を殺す訓練を受けてきた彼女が、これほどまでに人間らしい表情を見せるのは稀なことだ。
「私のような、ただ機能を果たすためだけに作られた存在にとって、貴殿らの在り方は眩しすぎる。だが、同時に安堵もするのだ。人間という種が、これほどまでに激しく、そして実直に互いを求め合えるものだという事実に」
彼女は、僕と陽葵が「一日三回の共鳴」を欠かさず、互いの存在を文字通り呼吸のように必要としていることを、すべて肯定していた。彼女にとって、それは僕たちの「生存戦略」であり、完成された一つの生命の形に見えているのかもしれない。
冴は立ち上がると、最後に一度だけ、僕の胸元に視線を落とした。
「貴殿の拍動は、以前よりも強く、規則正しい。……陽葵という光源を得て、ようやく貴殿は『一』になれたのだな。護衛など、もはや不要かもしれん」
彼女は翻る外套の音と共に、風のように去っていった。
残された僕と陽葵の間に、再び二人だけの静寂が戻る。
「……冴さん、笑ってたね」
「ああ。僕たちのこの異常な毎日が、誰かの希望になってるなんて、思ってもみなかったよ」
夕暮れが近づく。三度目の、そして一日の締めくくりとなる「充足」の時間が近づいていた。
僕たちは、誰に恥じることもなく、ただ互いの体温を求めて手を伸ばした。




