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朝の儀式

午前五時。港町の朝は、魚市場へと向かうトラックの遠いエンジン音から始まる。

 だが、僕たちの意識が真に覚醒するのは、それよりも少しだけ後だ。


 隣で眠る陽葵ひまりの、規則正しいがどこか切迫した呼吸が、僕の肌に伝わってくる。薄い夏掛けの布団の中で、僕たちは無意識に互いの四肢を絡ませ、皮膚の面積を最大限に密着させていた。


「……ん、零くん。起きてる?」


 掠れた声とともに、陽葵の指先が僕の首筋を這う。

 言葉を交わすよりも先に、僕たちは互いの脈拍を確認する。それが、この数年間欠かしたことのない僕たちの「儀式」だ。一条組の跡取りとして時計の針に追われていた頃の僕は、朝というものを「義務の始まり」だとしか思っていなかった。だが今は違う。朝は、僕という「ゼロ」の個体に、陽葵という「光」を流し込み、今日一日を生きるためのエネルギーを充填する時間だ。


 僕は彼女の腰を引き寄せ、正面から深く重なる。

 この数年で、僕たちは言葉を介さずとも相手が何を求めているかが、毛穴の開き方ひとつで分かるようになっていた。


「今日も、足りない……全然、足りないよ。零くん」


 陽葵が僕の肩に歯を立てる。痛みは快楽へと即座に変換され、脳髄を痺れさせる。

 普通なら、数年も一緒にいれば「慣れ」や「倦怠」が訪れるものだろう。実際、かつて出会った瑛理香えりかの情熱は激しすぎ、結衣ゆいの優しさは穏やかすぎた。彼女たちとの関係は、常に僕という器から溢れるか、あるいは底まで届かないかのどちらかだった。


 だが、陽葵だけは違った。

 彼女の求める「量」と、僕が吐き出す「量」が、恐ろしいほどの精度で合致している。

 一度、二度……。

 肌が擦れ、体温が混ざり合うたびに、僕のノイズだらけだった神経が整列していく。

 

「……ああ。僕もだよ。君がいないと、今日という日が始まらない」


 彼女との接触は、コーヒーを飲むよりも、洗顔をするよりも、僕の生存にとって本質的だ。

 一日に三度、この深い共鳴を繰り返さなければ、僕たちの精神は形を保てない。

 それは、世間が呼ぶような「愛」という崇高な言葉よりも、ずっと動物的で、飢餓に近い何かだ。

 

 一条組を捨て、社会的な地位を捨てた僕が今、一級建築士として描く図面は、この朝の儀式によって研ぎ澄まされた感覚から生まれる。

 人が住む場所には、無駄な空間などいらない。ただ、愛する者同士が最短距離で触れ合える機能美があればいい。僕が設計する「家」がこの町で評価されているのは、皮肉にも、僕自身が抱えるこの「剥き出しの飢え」が、人間の根源的な安心感を射抜いているからなのだろう。


 儀式を終え、陽葵が満足げに僕の腕の中で吐息を漏らす。

 彼女の頬は赤らみ、瞳は潤んでいる。この瞬間だけが、世界で唯一の真実だと確信できる。


「……ねえ、零くん。あとで、新しいお菓子の試作、食べてくれる? 今度は、もっと舌に残るような……あんたの匂いがするような、甘いのを作りたいの」


「ああ、楽しみにしてるよ」


 僕たちはゆっくりとベッドから這い出し、それぞれの日常へと動き出す。

 僕は製図板へ、彼女は工房へ。

 離れている時間は、次に来る「昼の儀式」を心待ちにするための、甘美な飢餓の時間だ。


 窓の外には、穏やかな瀬戸内の海が広がっている。

 あの煌びやかで騒がしかった「偽りの恋」の舞台からは、もう遠く離れてしまったけれど。

 僕たちは今、かつてないほどに、正しく「生きて」いる。

 一日に三度、魂を削り合うようにして確かめ合う、この狂おしいほどに完璧な適合こそが、僕たちの選んだ、唯一無二の現実なのだから。

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