表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
91/100

空白の数年間

 潮騒の音が、目覚まし時計代わりだった。


 天城山のあの嵐のような夜から、数年の月日が流れた。

 僕たちが辿り着いたのは、地図の端に追いやられたような、小さな港町の一角にある古い平屋だ。一条組の跡取りとして、強固な鉄骨とコンクリートに囲まれて育った僕にとって、潮風で木材が軋むこの家は、あまりにも脆く、そしてあまりにも自由な「城」だった。


「……おはよう、零くん」


 隣で眠る陽葵ひまりが、僕の体温を確認するように腕を絡めてくる。

 実家からの追跡を振り切り、戸籍上の繋がりすら曖昧にして逃げ延びたあの日から、僕たちの生活は、世間一般の「幸福」の定義からは大きく外れたものになった。

 

 一条組の潤沢な資金も、瀬那の老舗としての看板もない。あるのは、僕が執念で手に入れた建築士の資格と、陽葵がその小さな指先で生み出す、名もなき菓子。そして何より、**「一日に三度、必ず行われる儀式」**を軸に回転する、密室の日常だ。


「ああ、おはよう。……今日は、岬の現場の図面を仕上げなきゃいけないんだ」


 僕は彼女の額に口づけ、その脈動を吸い込む。

 この数年間、僕たちは文字通り「二人きり」で生きてきた。

 かつて僕を支配していた不感症は、陽葵という唯一の共鳴体を得ることで、逆に制御不能なほどの「感度」へと変貌を遂げていた。

 

 僕が設計する「家」は、この港町で少しずつ評判を呼んでいる。かつて父が求めた「権威の象徴」としてのビルではない。そこに住む人間が、互いの体温をどこにいても感じられるような、極限までプライバシーと開放性を同居させた、ある種の**「共依存のための空間」**。

 僕の内側にある異常な飢餓感が、皮肉にも建築家としての独創性に変換されていた。


「零くんの描く図面は、ときどき怖いくらいに優しいね。……誰にも邪魔されたくないっていう、あんたの執念が透けて見えるみたい」


 陽葵はくすくすと笑いながら、僕の背中の、あの時瑛理香えりかに付けられた爪痕がうっすら残る場所をなぞった。

 鳳瑛理香、瀬那結衣ゆい常磐萬里花まりか、そして凪冴さえ

 彼女たちの名前は、この数年間、一度も僕たちの口から出ることはなかった。

 それは忘却ではなく、保存だ。僕たちは彼女たちを、自分たちの「正解」を証明するための劇薬として、過去の中に封じ込めたのだ。

 

 特に結衣については、陽葵にとって今も消えない「傷」だろう。

 陽葵は時折、深夜に一人で泣いていることがあった。姉への謝罪ではない。姉を捨ててまで手に入れた「この快楽」を、自分が手放すつもりが一ミリもないことへの、自身の業に対する涙だ。


「後悔してるか? ……陽葵」


 僕は、彼女の指先を自分の口内に招き入れ、甘噛みしながら問いかける。

 陽葵は首を横に振った。その瞳には、かつての「妹」としての甘えはなく、僕のすべてを食らい尽くそうとする「共犯者」としての光だけが宿っている。


「後悔なんて、する暇ないよ。……だって、毎日、こうしてあんたの熱を確認してないと、私、自分が誰だったか忘れちゃうんだもん。瀬那陽葵なんて女の子は、あの日、天城山で死んだの。今ここにいるのは、零くんの隣でしか息ができない、ただの生き物だよ」


 そう。僕たちを繋ぎ止めているのは、もはや恋や愛といった生ぬるい感情ではない。

 朝の光の中で、昼の静寂の中で、そして夜の暗闇の中で。

 お互いに、それだけの回数を重ねなければ、脳内の報酬系が焼き切れてしまう。

 普通の人間が食事や睡眠を欲するように、僕たちは互いの「適合」を欲する。

 

 陽葵が作る菓子もまた、その「飢え」を体現していた。

 彼女は実家の伝統的な製法を捨て、地元の果実や塩を使い、食べた瞬間に脳が痺れるような、暴力的なまでの甘みと酸味を追求した。それは理性を溶かすための劇物だ。

 

「……ねえ、零くん。最近、夢を見るの。あの山小屋に、誰かが迎えに来る夢。お姉ちゃんだったり、瑛理香さんだったり……。みんな、私たちを地獄から救い出そうとしてくれるんだけど。私たちは、その手を振り払って、もっと深い闇の中に落ちていくの。……それが、すごく幸せな夢なんだ」


 僕は彼女を強く抱きしめた。

 地獄。そうかもしれない。

 社会的な立場も、未来への展望も、すべてを「特定の一人との肉体的な充足」という一点に賭けてしまった僕たちの生き方は、傍から見れば、出口のない閉鎖病棟のようなものだろう。


 だが、その病室の中にこそ、僕が一生をかけて探し求めていた「いち」がある。

 一条組の跡取りとして、何万トンもの土砂を動かしていた頃には決して得られなかった、指先一枚の接触から得られる宇宙のような充足。

 

 空白の数年間。

 それは僕たちが、自分たちの「異常な価値観」を、誰にも文句を言わせない「日常」へと研ぎ澄ませていくための、必要な熟成期間だった。

 

「さあ、陽葵。仕事の前に、もう一度だけ……」


 僕は彼女の言葉を、自身の熱で封じ込めた。

 潮風が窓を叩き、古い木造の家が小さく悲鳴を上げる。そのノイズさえも、僕たちの同期した心音の中に溶けて消えた。

 

 平穏な日常の皮を被った、狂気のリピート。

 この数年間で、僕たちの絆は、もはや神様にさえも引き剥がせないほどに、醜く、そして美しく癒着していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ