空白の数年間
潮騒の音が、目覚まし時計代わりだった。
天城山のあの嵐のような夜から、数年の月日が流れた。
僕たちが辿り着いたのは、地図の端に追いやられたような、小さな港町の一角にある古い平屋だ。一条組の跡取りとして、強固な鉄骨とコンクリートに囲まれて育った僕にとって、潮風で木材が軋むこの家は、あまりにも脆く、そしてあまりにも自由な「城」だった。
「……おはよう、零くん」
隣で眠る陽葵が、僕の体温を確認するように腕を絡めてくる。
実家からの追跡を振り切り、戸籍上の繋がりすら曖昧にして逃げ延びたあの日から、僕たちの生活は、世間一般の「幸福」の定義からは大きく外れたものになった。
一条組の潤沢な資金も、瀬那の老舗としての看板もない。あるのは、僕が執念で手に入れた建築士の資格と、陽葵がその小さな指先で生み出す、名もなき菓子。そして何より、**「一日に三度、必ず行われる儀式」**を軸に回転する、密室の日常だ。
「ああ、おはよう。……今日は、岬の現場の図面を仕上げなきゃいけないんだ」
僕は彼女の額に口づけ、その脈動を吸い込む。
この数年間、僕たちは文字通り「二人きり」で生きてきた。
かつて僕を支配していた不感症は、陽葵という唯一の共鳴体を得ることで、逆に制御不能なほどの「感度」へと変貌を遂げていた。
僕が設計する「家」は、この港町で少しずつ評判を呼んでいる。かつて父が求めた「権威の象徴」としてのビルではない。そこに住む人間が、互いの体温をどこにいても感じられるような、極限までプライバシーと開放性を同居させた、ある種の**「共依存のための空間」**。
僕の内側にある異常な飢餓感が、皮肉にも建築家としての独創性に変換されていた。
「零くんの描く図面は、ときどき怖いくらいに優しいね。……誰にも邪魔されたくないっていう、あんたの執念が透けて見えるみたい」
陽葵はくすくすと笑いながら、僕の背中の、あの時瑛理香に付けられた爪痕がうっすら残る場所をなぞった。
鳳瑛理香、瀬那結衣、常磐萬里花、そして凪冴。
彼女たちの名前は、この数年間、一度も僕たちの口から出ることはなかった。
それは忘却ではなく、保存だ。僕たちは彼女たちを、自分たちの「正解」を証明するための劇薬として、過去の中に封じ込めたのだ。
特に結衣については、陽葵にとって今も消えない「傷」だろう。
陽葵は時折、深夜に一人で泣いていることがあった。姉への謝罪ではない。姉を捨ててまで手に入れた「この快楽」を、自分が手放すつもりが一ミリもないことへの、自身の業に対する涙だ。
「後悔してるか? ……陽葵」
僕は、彼女の指先を自分の口内に招き入れ、甘噛みしながら問いかける。
陽葵は首を横に振った。その瞳には、かつての「妹」としての甘えはなく、僕のすべてを食らい尽くそうとする「共犯者」としての光だけが宿っている。
「後悔なんて、する暇ないよ。……だって、毎日、こうしてあんたの熱を確認してないと、私、自分が誰だったか忘れちゃうんだもん。瀬那陽葵なんて女の子は、あの日、天城山で死んだの。今ここにいるのは、零くんの隣でしか息ができない、ただの生き物だよ」
そう。僕たちを繋ぎ止めているのは、もはや恋や愛といった生ぬるい感情ではない。
朝の光の中で、昼の静寂の中で、そして夜の暗闇の中で。
お互いに、それだけの回数を重ねなければ、脳内の報酬系が焼き切れてしまう。
普通の人間が食事や睡眠を欲するように、僕たちは互いの「適合」を欲する。
陽葵が作る菓子もまた、その「飢え」を体現していた。
彼女は実家の伝統的な製法を捨て、地元の果実や塩を使い、食べた瞬間に脳が痺れるような、暴力的なまでの甘みと酸味を追求した。それは理性を溶かすための劇物だ。
「……ねえ、零くん。最近、夢を見るの。あの山小屋に、誰かが迎えに来る夢。お姉ちゃんだったり、瑛理香さんだったり……。みんな、私たちを地獄から救い出そうとしてくれるんだけど。私たちは、その手を振り払って、もっと深い闇の中に落ちていくの。……それが、すごく幸せな夢なんだ」
僕は彼女を強く抱きしめた。
地獄。そうかもしれない。
社会的な立場も、未来への展望も、すべてを「特定の一人との肉体的な充足」という一点に賭けてしまった僕たちの生き方は、傍から見れば、出口のない閉鎖病棟のようなものだろう。
だが、その病室の中にこそ、僕が一生をかけて探し求めていた「一」がある。
一条組の跡取りとして、何万トンもの土砂を動かしていた頃には決して得られなかった、指先一枚の接触から得られる宇宙のような充足。
空白の数年間。
それは僕たちが、自分たちの「異常な価値観」を、誰にも文句を言わせない「日常」へと研ぎ澄ませていくための、必要な熟成期間だった。
「さあ、陽葵。仕事の前に、もう一度だけ……」
僕は彼女の言葉を、自身の熱で封じ込めた。
潮風が窓を叩き、古い木造の家が小さく悲鳴を上げる。そのノイズさえも、僕たちの同期した心音の中に溶けて消えた。
平穏な日常の皮を被った、狂気のリピート。
この数年間で、僕たちの絆は、もはや神様にさえも引き剥がせないほどに、醜く、そして美しく癒着していた。




