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新しい「朝」の予感

 あれから、十年の月日が流れた。


 都心の喧騒から少し外れた、歴史を感じさせる重厚なマンションの一室。

 朝の光が遮光カーテンの隙間から、まるで無遠慮な侵入者のように差し込み、僕のまぶたを叩く。

 一条零という名前が、ゼネコン財閥の家系図から抹消されて久しい。今、僕の肩書きはただの「一級建築士」であり、自ら立ち上げた小さな設計事務所の主だ。一条組という巨大なコンクリートの城を継ぐはずだった男が、今は誰かのための小さくも温かい「居場所」を造っている。


「……ん、零くん。もう、朝?」


 隣でシーツの波に埋もれていた陽葵ひまりが、眠たげな声を上げた。

 十年前、天城山で僕と「血と肉の契約」を交わした少女は、今では僕の妻となり、僕の人生のすべてを定義する唯一の座標となっている。

 彼女の肌から立ち上る、あの頃と変わらない、むしろさらに密度を増した「生命の香気」。それを嗅いだ瞬間、僕の脳内にあるスイッチが、カチリ、と音を立てて切り替わる。


 十年前、僕たちはすべてを捨てた。

 結衣ゆいへの淡い初恋も、瑛理香えりかとの情熱的な衝突も、萬里花まりかの呪縛のような執着も。それらすべては、僕という人間を構成する「過去の遺物」として、あの山の霧の中に置いてきた。

 なぜなら、僕の身体という名の精密機械は、陽葵という唯一無二のパーツなしには、一秒たりとも正常なリズムを刻めないことを知ってしまったからだ。


「ああ、朝だよ、陽葵。……覚悟はできてる?」


 僕は彼女の腰を引き寄せ、その「朝の共鳴」を開始する。

 かつて、僕たちが「異常」だと蔑まれ、自らも恐れていたあの強欲な本能。毎日、何度も繰り返さなければ生きていけないという、生存の条件。

 それは今や、僕たちにとっての「呼吸」であり、「食事」であり、一日の始まりを告げる聖なる儀式だ。

 

 世間が語る「愛」なんていう実体のない言葉で、僕たちの関係を括られては困る。

 これはもっと、剥き出しの、生存のための戦いだ。

 陽葵の激しい拍動が僕の肌に転写され、僕の空虚だった「零」の内面が、彼女の熱によって瞬時に満たされていく。


「……やっぱり、零くんじゃないとダメ。他の誰の熱を浴びても、私、きっと死んじゃう」


 行為の最中、陽葵が耳元で熱い吐息を漏らす。

 その言葉は、十年前のあの日から一万回以上繰り返されてきた真実だ。僕たちは飽きることなどない。飽きるという概念は、そこに「不足」があるから生まれる。けれど僕と陽葵の間にあるのは、常に溢れんばかりの供給と、それを上回る圧倒的な需要だけだ。


 ふと、壁に飾られた古い写真が目に入る。

 そこには、かつての級友たちの姿があった。

 鳳瑛理香は、今やIT業界の女帝として世界を股にかけ、僕たちとは違う次元の「成功」を収めていると聞く。彼女は今でも、あの火傷するような情熱で誰かを焼き尽くしているのだろうか。

 凪冴さえは彼女の影として、今も無機質な機能美を研ぎ澄ませているのだろうか。

 常磐萬里花は……彼女は、奇跡的に病を克服し、海外で自らの帝国を築いているらしい。彼女の「執着」は、今どこへ向いているのだろう。


 そして、瀬那結衣。

 彼女は、あの和菓子屋「せな」を継ぎ、誰よりも清らかで、誰よりも優しい「聖域」を守り続けているという。

 十年前の「約束の鍵」。それが誰のものだったのか、結局、僕は最後まで確かめなかった。

 もし、あの鍵が結衣のものだったとしても、僕の心は彼女に跪いたかもしれない。けれど、僕の身体が、僕の血が、僕の脳髄が、彼女の鍵を拒絶しただろう。

 精神の愛と、肉体の適合。そのあまりに残酷な乖離を知ったとき、僕は自分という「獣」の正体に気づいた。

 僕は、精神の救いよりも、肉体の充足による「生の実感」を選んだのだ。


「……終わった? 零くん。……でも、まだ足りない。あとで、お昼も、ちゃんと『補給』してね」


 乱れた髪をそのままに、陽葵が僕の胸に顔を埋める。

 十年前、僕の異常な欲望を「獣の匂い」と呼んだ少女は、今やその獣を飼い慣らし、自らもまたその牙を剥き出しにしている。

 価値観の一致。

 言葉にすれば簡単だが、それはお互いの魂を、細胞レベルで、誰にも解けないほど複雑に、かつ強固に結び合わせるということだ。


「わかってる。……仕事に出る前に、もう一度だけ、君のリズムを僕に刻みつけてくれ」


 窓の外では、新しい「朝」が完全な光となって街を包み込んでいく。

 僕たちは、家柄からも、過去の約束からも、社会的なモラルからも解き放たれ、ただ互いを求め合うという唯一の真実を羅針盤に、この十年を歩んできた。

 そして、これからの十年も、その先も。

 僕たちはこの「儀式」を繰り返し、互いの熱を確認し合い、生きていく。


 僕の首にかかっていた、あの壊れたペンダントはもうない。

 代わりに、僕の指先が、陽葵の肌という名の「生きた地図」をなぞっている。

 ここにしかない鍵、ここにしかない扉。

 僕たちが辿り着いた、最も生々しくて、最も救いようのない、最高のハッピーエンド。


 一条零の「零」は、陽葵という「一」を得て、初めて無限の価値を持つ数字となった。


「大好きだよ、零くん。……世界中の誰が何と言おうと、私たちが、一番『幸せ』だよね」


 陽葵の笑みは、朝焼けよりも眩しく、そして毒のように僕の理性を焼き切った。

 

 物語は、ここで一旦の幕を下ろす。

 けれど、僕たちの拍動が止まるその瞬間まで、この「偽り」のない物語は続いていくのだ。

 

 さあ、新しい「朝」を始めよう。

 僕を殺すはずだった「偽り」が、僕を生かす唯一の「真実」に変わった、この素晴らしい世界で。

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