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家柄からの離脱

 山頂の朝は、驚くほどに白かった。

 視界の端から端までを埋め尽くす朝霧は、まるで僕たちがこれまで歩んできた「偽装」という名の不透明な日々そのもののようで、けれどその冷たさは、僕の肌を刺すほどに現実的な感覚を伴っていた。

 つい数時間前まで、この天城山の静寂は、ゼネコン財閥「一条組」の私兵たちが放つ殺気と、IT財閥「おおとり」の息がかかったエージェントたちの冷徹な電子音に侵食されていたはずだった。僕という「跡取り」を、あるいは「象徴」を、自らの陣営に引き戻そうとする、血の通わない欲望の残滓。

 だが、今やそれらはすべて霧の彼方へと消え去っていた。


 萬里花まりかがその命を削るような執念で、政治という名の巨大な盤面をひっくり返したのだ。そして瑛理香えりかが、その高貴なプライドを「一人の女としての矜持」へと昇華させ、僕をこの場所へと解き放った。

 残されたのは、僕と、僕の腕の中で震える陽葵ひまりだけだ。


「……終わったんだな。いや、終わらせたのか。僕たちが」


 僕は、自分の手のひらを見つめた。

 この手は、一条組の次期当主として、何千人もの社員の生活を支え、強固な鉄骨とコンクリートで世界を塗り固めるために教育されてきたものだ。一条家が築き上げてきた「一」という強固な構造物。その頂点に君臨し、絶対的な秩序を保つこと。それが僕に課せられた唯一の正解であり、それ以外の数字――すなわち「零」への回帰は、断じて許されない背信行為だった。


「一条組の王子様。ゼネコンの跡取り息子……。そんな輝かしい肩書きは、今この瞬間に、ただの燃えカスになった。親父は激怒するだろうし、親戚連中は僕を『恥さらし』として戸籍から抹消する準備を始めているだろうさ。……なあ、陽葵。僕は今、人生で一番、空っぽで、何もない男になったよ」


 自嘲気味な笑いが漏れる。だが、その言葉とは裏腹に、僕の身体の奥底に横たわっていたあの「不感症」のような冷たさは、どこにもなかった。

 陽葵がゆっくりと顔を上げ、僕のシャツの裾をギュッと握りしめる。彼女の瞳は、朝霧を反射して潤んでいる。彼女もまた、すべてを捨てたのだ。姉である結衣ゆいへの献身、老舗和菓子屋の看板、親への孝行。それらすべてを裏切り、僕という、社会的には死んだも同然の獣の隣に立つことを選んだ。


「後悔、してる……? 零くん。本当なら、あなたはもっと広い世界で、たくさんの人に崇められて、素敵な婚約者と結婚して……。私なんかといるよりずっと、ちゃんとした『一条零』でいられたはずなのに」


 陽葵の声は震えていた。その震えが、僕の腕を通じて脳髄へとダイレクトに伝わる。

 僕は彼女の細い腰を引き寄せ、その体温を貪るように抱きしめた。

 ああ、これだ。

 この瞬間、僕の脳内で弾ける快楽の正体は、高尚な恋愛感情などという綺麗な言葉では到底説明がつかない。


「後悔? ……ふ、ははは! 冗談言わないでくれよ、陽葵。後悔なんて、そんな余裕、今の僕にあると思うかい?」


 僕は彼女の項に顔を埋め、深々とその匂いを吸い込んだ。

 結衣の放つ聖域のような静謐な香りでも、瑛理香の放つ情熱的な薔薇の香りでもない。陽葵の身体から立ち上るのは、もっと根源的な、生きるための熱そのものだ。


「一条零という名前の『一』は、僕にとって呪縛でしかなかった。家柄、宿命、責任。そんな虚飾で塗り固められた数字なんて、僕には重すぎたんだ。でも、すべてを捨てて、本当の意味で『零』になった今、ようやく僕は、僕自身の輪郭をこの手に掴んでいる感覚がある」


 僕は彼女の肌に、自分の熱を叩きつけるように言葉を重ねた。


「僕たちが選んだのは、心中じゃない。心中なんてのは、未来に絶望した奴らがすることだ。でも、僕たちは違うだろう? 僕たちは、自分たちのこの『異常な適合』を、誰にも邪魔されずに、ただひたすらに、貪欲に、機能させ続ける道を選んだんだ。これは心中じゃない。……もっと泥臭く、もっと生々しい『生存』のための、合理的な決断だ」


 そう、僕の身体は知ってしまったのだ。

 1日に何度も訪れる、あの脳が焼けるような飢餓感。細胞の一つひとつが叫び声を上げ、他者の熱なしには維持できなくなる、剥き出しの欠落。

 結衣の愛は優しすぎた。瑛理香の熱は激しすぎた。萬里花の執着は重すぎた。

 彼女たちの鍵は、確かに僕の心の扉を叩いたかもしれない。けれど、僕の肉体という名の、この壊れた回路を正常に動かせる唯一のエネルギー源は、陽葵、君だけだったんだ。


「君がいないと、僕は1日に3回も、いや、それ以上訪れるあの『空腹』に耐えかねて、発狂して死んでしまう。僕にとって君との接触は、もはや嗜好品じゃない。酸素であり、水であり、生きるための必須栄養素なんだよ」


「零くん……」


 陽葵の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、自身の業を、そして僕との共依存を完全に受け入れた者だけが流す、覚悟の結晶だった。


「うん。私も……私も同じだよ。お姉ちゃんが大好きで、お姉ちゃんを幸せにしたかったはずなのに、零くんのその『獣の匂い』を嗅いだ瞬間に、私の全部が壊れちゃった。零くんの熱を吸って、私の全部を吐き出さないと、私、自分が自分じゃなくなっちゃうの。……私たち、普通の幸せなんて、最初から似合わなかったんだね」


 陽葵が僕の首に腕を回し、その小さな、けれど力強い拍動を僕の胸に押し当てる。

 朝霧が晴れ、山の向こうから強烈な太陽の光が射し込んできた。

 これから僕たちが向かうのは、華やかな財閥の世界でも、思い出に彩られた学園でもない。名前を捨て、家柄を捨て、ただの「オス」と「メス」として、互いの欠落を埋め合わせるためだけに呼吸をする、狭くて暗い、けれど誰よりも濃厚な密度に満ちた日常だ。


「行こう、陽葵。麓に降りれば、僕を守ってくれる一条組の看板も、君を甘やかしてくれる瀬那の看板もない。ただの路地裏の生活が待っているだけだ」


「いいよ。零くんが私を食べてくれるなら、どこだって。……私、零くんが壊れるまで、ずっと隣で熱を出してあげるから」


 僕たちは手を繋ぎ、朝日の中へと歩き出した。

 もう、ペンダントの鍵が誰のものかなんて、どうでもいい。

 10年前の約束? そんな古い契約書に、今の僕たちの拍動を縛る力なんてない。

 僕たちは、自分たちの本能を最大限に機能させるための、最も合理的で、最も生々しい「離脱」を完了させたのだ。


 朝の光に照らされた陽葵の横顔は、どのヒロインよりも、どの女神よりも、僕の空腹を激しく刺激していた。

 今日という日が始まる。

 そして、僕たちの「1日」が始まるのだ。

 何度も、何度も、壊れるまで繰り返される、僕たちのための儀式が。

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