萬里花の祝福
病室の空気は、消毒液の匂いと、微かな死の予感に満ちていた。
一条組と鳳家の追手を振り切り、僕と陽葵がたどり着いた一時的な潜伏先。そこに設置されたモニターに映し出されたのは、かつて僕を狂おしいほどの執着で追い詰めた少女、常磐萬里花だった。
彼女の顔色は、モニター越しでも分かるほどに青白い。だが、その瞳に宿る光だけは、僕を「婚約者」と呼んで憚らなかったあの頃のまま、鋭く、そしてどこか晴れやかだった。
「……ようやく、見つけましたわ。私の愛しい、強欲な零様」
萬里花は、点滴に繋がれた細い腕を動かし、画面越しに僕の頬を撫でるような仕草をした。その肌の薄さ、生命力の脆さを思い出し、僕の喉の奥が引き攣れる。
「萬里花……。君の体を考えれば、こんな通信なんて――」
「黙りなさいな、零様。今の私に必要なのは安静ではなく、貴方の結末を見届けること。……それにしても、驚きましたわ。まさか、あの清純な結衣様でもなく、あの輝かしい瑛理香様でもなく……その小さな『太陽の欠片』を選ばれるなんて」
萬里花の視線が、僕の隣で僕のシャツの裾を握りしめている陽葵へと向けられる。陽葵は気圧されることなく、萬里花の瞳を見つめ返した。
「……常磐さん。私は、零くんの全部を受け止めるって決めたんです。お姉ちゃんにも、鳳さんにもできないやり方で」
陽葵の宣言に、萬里花は一瞬の沈黙の後、鈴を転がすような声で笑い始めた。その笑い声は、激しい咳き込みによって中断される。
「……オホッ、ゴホッ! ……ええ、分かっていますわ。私のこの『岩』のような重い愛でも、貴方のその底なしの空腹を満たすには、少しばかり温度が足りませんでしたのね。……貴方のその異常な本能。毎日、何度も、狂ったように誰かを求めずにはいられないその肉体は、普通の女にはただの『呪い』でしかありませんわ」
萬里花は、自嘲気味に微笑んだ。
彼女との接触は、常に一方的な略奪だった。僕のエネルギーを吸い取り、自分を繋ぎ止めるための儀式。だが、陽葵との関係は違う。僕が放つ過剰な熱を、彼女は呼吸するように吸収し、さらに鮮烈な熱として返してくる。
「でも、今の貴方の目……とても素敵ですわ。罪悪感に苛まれていた頃の濁った瞳じゃない。ようやく、自分を『一』として完成させてくれるピースを見つけたのですわね。……認めましょう。その強欲な身体、私には飼い慣らせませんでしたわ」
萬里花は深く、深く息を吐き出した。そして、その瞳に「常磐家の影の支配者」としての冷徹な色を宿す。
「いいですわ。この萬里花が、貴方たちの『逃走』に、最後の手向けを差し上げます。……今、常磐家の持つすべての政治的コネクションを動かし、一条組と鳳家への圧力を強めましたわ。彼らはもう、貴方たちを追うことはできません。これは、私からの『祝福』です」
「どうして、そこまで……」
「勘違いしないでくださいな。私は、私の選んだ男が、妥協で誰かと結ばれるのを見るのが耐えられないだけ。……さあ、行きなさい。その欲望に忠実なまま、世界を焼き尽くすほどに睦み合うがいいわ」
モニターが、静かにブラックアウトする。
最後に映った彼女の口元は、「愛していますわ」と動いたようにも見えた。
背後の窓から、夜明けの光が差し込んでくる。
僕と陽葵は、互いの拍動を確認するように、強く、強く抱き合った。
「……零くん。私たち、本当に行けるところまで行くんだね」
「ああ。止まれないし、止まるつもりもない。……いこう、陽葵」
僕たちの価値観が、完全に一致する。
この異常な渇きこそが、僕たちの生きる証なのだ。




