瑛理香の誇り
山小屋を包囲していた一条組の構成員たちが、一斉に道を開けた。
豪雨を切り裂くようにして現れたのは、鳳家の重装車両と、その中央に立つ一人の少女。
鳳瑛理香。
濡れたブロンドを夜風に靡かせ、彼女は翡翠のような瞳で、僕と陽葵を射抜いた。
「……見苦しいわね、零。こんなボロ小屋に逃げ込んで、何をしているつもり?」
彼女の声は、かつて僕を支配したあの高飛車な響きを保っていた。だが、その裏側で微かに震える熱量を、僕は見逃さなかった。
彼女の背後には、冷徹な表情の凪冴が控えている。瑛理香の手には、一条組と鳳家の合併プロジェクトを白紙に戻すための「破談書」が握られていた。
「瑛理香。……迎えに来てくれたのか。それとも、僕を殺しに来たのか?」
僕は陽葵を背中に庇いながら、瑛理香へと一歩踏み出した。
彼女は嘲笑うように口角を上げる。
「殺す? そんな価値もないわ。ただ、あんたを鳳家の『所有物』として連れ戻しに来ただけよ。……偽装だろうと何だろうと、あんたは私と添い遂げる義務がある。それが、一条と鳳の契約でしょ?」
彼女が僕の胸ぐらを掴む。その指先は驚くほど熱く、そして震えていた。
かつて、彼女と触れ合った時に感じた、あの「火傷するような情熱」。彼女の身体は、今この瞬間も、僕との衝突を、僕との「戦いのような共鳴」を激しく求めている。
だが、僕は彼女の手を、静かに、しかし拒絶の意志を込めて振り払った。
「悪い。もう、その契約には応えられない」
「……なんですって?」
「瑛理香、君との時間は、確かに刺激的だった。君の放つ熱は、凍りついていた僕を呼び覚ましてくれた。……でも、それは『嵐』なんだ。いつかは過ぎ去り、すべてを焼き尽くす。今の僕が求めているのは、君のような完璧な太陽じゃない」
僕は後ろにいる陽葵の、小さな、しかし力強く脈打つ手を取り、瑛理香に突きつけた。
「僕は、この子と溶け合うことでしか、自分が『零』であることを止められない。……君との激しい恋よりも、この子との、互いがいないと呼吸すらままならない『生存のための共鳴』を選んだんだ。例え、それが茨の道だとしても」
瑛理香の瞳が、大きく見開かれる。
彼女は僕の瞳の中にある、陽葵への執着を超えた「全能の共存」を読み取った。それは、どれだけ彼女が情熱を燃やしても、決して立ち入ることのできない、閉じた世界の完成だった。
「……ふん。相変わらず、趣味が悪い男ね」
瑛理香は、ふっと憑き物が落ちたように力を抜いた。
彼女は手にしていた破談書を、豪雨の中へと放り投げる。紙片は瞬く間に泥水に沈んでいった。
「……お嬢様。よろしいのですか?」
冴が、静かに、しかし動揺を隠せずに問う。
瑛理香は、気高く顎を上げた。
「……いいのよ。鳳瑛理香は、心ここにあらずの男を囲っておくほど、安っぽい女じゃないわ。……零。あんた、自分の選択に責任を持ちなさい。その子がいないと呼吸もできないって言うなら、死ぬまで、一日に三度は死ぬ気で愛してあげなさい。……私の代わりなんて、務まらないくらいにね」
それは、彼女なりの、最大限の誇りに満ちた「敗北」の宣言だった。
彼女は背を向け、一度も振り返ることなく重装車両へと乗り込む。
「行きなさい、冴。……もう、ここに用はないわ」
走り去る車のテールランプが、雨幕の向こうに消えていく。
残された僕と陽葵の間に、再び深い静寂が訪れる。
陽葵は、僕の腕をぎゅっと抱きしめた。
その体温は、瑛理香のような灼熱ではない。しかし、僕の細胞の隅々まで染み渡り、欠けたピースを埋めていく、至高の充足だった。
「……零くん。私たち、もう一人ぼっちだね」
「ああ。……でも、二人いれば、それだけで世界は完結する」
僕は陽葵の額に唇を寄せた。
過去の約束も、家柄の宿命も、すべて雨に流された。
残ったのは、狂おしいほどの「相性」という真実だけ。




