結衣の追及と諦念
山小屋の古びた扉が、外圧によって悲鳴を上げながら撥ね飛ばされた。
豪雨とともに流れ込んできたのは、夜の冷気と、そして――僕がこの十年、人生の指針として信じ込んできた「聖域」だった。
「……零くん。陽葵」
そこに立っていたのは、瀬那結衣だった。
ずぶ濡れの振袖が重く垂れ下がり、彼女の白皙の肌は青白く透けている。その手には、僕が今日までずっと探し求めていた、あの「約束」の正解であるはずの鍵が握りしめられていた。
僕は陽葵を抱き寄せたまま、結衣を見据えた。
陽葵の身体が、姉の視線に晒されて微かに跳ねる。だが、僕が彼女の腰をさらに強く、所有を誇示するように引き寄せると、彼女は観念したように僕の胸に顔を埋めた。
「零くん、どうして……。約束したのは、私だったのに。ずっと、待っていたのに」
結衣の声は震えていた。それは裏切りに対する怒りではなく、積み上げてきた世界が瓦解していくことへの、純粋な悲鳴だった。
彼女の背後には、一条組の構成員たちが苦渋の表情で控えている。だが、誰も踏み込めない。この小屋の中に充満している、外部の人間には決して感知できない「密度の高い空気」に圧倒されているからだ。
僕は、足元に転がっている日記帳を一瞥し、それから結衣に告げた。
「ああ、日記を読んだよ。十年前、僕がすべてを捧げると誓ったのは、結衣、君だった」
結衣の瞳に、一筋の希望が灯る。
だが、僕は無慈悲に言葉を継いだ。
「でも、それは『過去』の記録だ。今の僕の細胞は、その約束じゃ一分も生きられない。僕を生かしているのは、その紙切れに書かれた思い出じゃない。今、僕の腕の中で脈動している、この熱量だけなんだ」
「そんなの、ただの……間違いだよ! 陽葵、あなたも分かってるんでしょ!? こんなこと、お父様たちが許すはずない。お姉ちゃんを、騙してるんだよね……っ?」
結衣が陽葵に縋り付くように叫ぶ。
陽葵は僕の腕の中で、ゆっくりと顔を上げた。その目は、姉と同じ形をしていながら、決定的に違う「光」を宿していた。
「お姉ちゃん。ごめんなさい。……でも、私、もう戻れないの。お姉ちゃんが零くんを想う気持ちが『愛』なら、私のこれは、もっと汚くて、重たくて、でも……これがないと呼吸もできない『命』なの」
「陽……葵……?」
「お姉ちゃんの愛は、綺麗すぎるよ。零くんはね、もっと……一日に何度も、何度も壊れそうな自分を繋ぎ止めてくれる人を求めてるの。お姉ちゃんじゃ、零くんを満足させてあげられない。……零くんを殺しちゃうよ」
陽葵の言葉は、鋭い刃となって結衣の胸を貫いた。
結衣の手から、銀色の鍵が力なく畳の上に落ちた。カラン、と虚しい音が響く。
その鍵は、僕のペンダントの穴に完璧に適合するのだろう。だが、今の僕にとって、それはただの金属の塊に過ぎなかった。
結衣は、僕の瞳を凝視した。
そこにあるのは、迷いも、後ろめたさもない。ただ陽葵という「唯一の適合者」を得て、飢餓から解放された男の、残酷なまでに満ち足りた「生の輝き」だった。
「……そう、なんだね」
結衣の唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
彼女は理解してしまったのだ。自分が信じてきた十年の歳月よりも、この数ヶ月で二人が重ねてきた「剥き出しの共鳴」の方が、遥かに強固で、救いようのない真実であることを。
「私の鍵じゃ……もう、零くんの心は開かないんだね」
結衣は力なく膝をついた。彼女の目から溢れた涙が、畳に落ちた鍵を濡らす。
それは、物語のヒロインが、自分の配役がもう存在しないことを悟った瞬間の、静かな諦念だった。
僕は陽葵を抱き上げたまま、結衣の横を通り抜け、小屋の出口へと向かう。
追手たちは、若頭である僕の気圧に、道を開けるしかなかった。
雨の中に足を踏み出す。
後ろを振り返ることはない。
背後で結衣の嗚咽が聞こえた気がしたが、それもすぐに嵐の音にかき消された。




