誓約
叩きつけるような豪雨が山小屋の屋根を打ち、雷鳴が古びた梁を震わせる。だが、僕の耳にはもう、そんな外界の狂騒は届いていなかった。
足元には、先ほど暖炉に投げ込んだ日記帳が、赤黒い炎に巻かれながら形を崩していくのが見える。十年前、僕が瀬那結衣と交わした「約束」。その美しすぎる過去は、今や灰となり、二度と読み返せない遺物へと変わっていく。本来なら、その光景に絶望し、罪悪感に苛まれるはずだった。
しかし、陽葵を抱き寄せる僕の瞳に宿っていたのは、背徳の痛みではなく、極限まで研ぎ澄まされた「生の確信」だった。
「……終わったんだ、陽葵。全部」
僕が求めていたのは、この紙切れに書かれた亡霊のような言葉だったのか? 違う。僕が飢えていたのは、名前のついた過去の称号などではない。
僕の腕の中で、陽葵が絶望に濡れた瞳で僕を見つめている。彼女の肩は小刻みに震え、姉への裏切りと、僕への抗いようのない渇望の間で、その精神は今にも崩壊しそうだった。
「零くん、ダメだよ……。お姉ちゃんとの思い出を、こんな風に焼き捨てちゃ……私たちが、本当の化け物になっちゃう……っ」
「いいさ。化け物で結構だ」
僕は一歩、彼女との距離をゼロにする。湿った板張りの床が、僕たちの重みに悲鳴を上げる。僕の指先が彼女のうなじに触れた瞬間、パチリと火花が飛ぶような衝撃が走り、三日間停止していた僕の思考回路が、暴力的なまでの色彩を取り戻した。
――これだ。
結衣との接触にはなかった、瑛理香との衝突にもなかった、凪冴の静寂にもなかった。剥き出しの「生存」の震え。
「君が言ったんだろ。私と同じだって。……触れてもらわないと、壊れるって。……僕も同じだ。君がいない世界は、ただの窒息死でしかない」
僕は彼女の腰を強引に引き寄せ、その体温を貪るように奪った。
陽葵の身体が、一瞬だけ拒絶するように硬直する。だが、僕の狂った心音が彼女の背中に伝わり、彼女の激しい拍動が僕の胸に響き始めた途端、彼女の指先が僕のシャツを、助けを求めるように強く掴んだ。
同期が始まる。
一分間に刻まれる鼓動の数、呼吸の深さ、肌が求める圧力。そのすべてが、狂った歯車が噛み合うように、恐ろしいほどの精度で合致していく。
「あぁ……っ、零、くん……!」
陽葵の唇から漏れたのは、懺悔でも謝罪でもなく、ただ僕という「個」を飲み込もうとする純粋な欲求だった。
僕たちは、もう戻れない。
幼い日の綺麗な約束も、一条の跡取りという肩書きも、道徳という名の衣も。すべてをこの嵐の中に脱ぎ捨てた。
窓の外、山道を登ってくる追手のライトが、霧を貫いて小屋の壁を舐めた。
あと数分もすれば、一条組の男たちが、あるいは泣き崩れる結衣が、ここに踏み込んでくるだろう。
だが、僕たちの時間は、もう彼らの流れる時間とは切り離されていた。
雷光が小屋の中を白一色に染める。
その閃光の中で、僕は陽葵の肌に深く刻み込むように唇を重ねた。
「誓うよ、陽葵。明日も、明後日も、死ぬまで。僕が『零』に戻りそうになるたびに、君の熱で僕を満たしてくれ。君がいれば、僕は何度でも『一』になれる」
陽葵もまた、僕の首筋に顔を埋め、涙に濡れた声で、けれど確かな殺意に近い執着を込めて答えた。
「私も、誓う。……お姉ちゃんから、零くんを完全に奪う。この身体が動かなくなるまで、先輩の全部を、私が引き受けてあげる」
それは、世界で最も醜悪で、世界で最も美しい「誓約」だった。
僕たちの関係は、もはや恋という安っぽい言葉では括れない。
一日に何度も、何度も、互いの存在を確認し、補給し合わなければ生命を維持できない、呪いにも似た共依存。
小屋の扉が外から激しく叩かれる。怒号が響く。
だが、僕と陽葵は、ただ静かに、互いの心音が一つに溶け合うのを感じていた。
偽りの恋は、今、この瞬間、完全に死んだ。
残ったのは、剥き出しの「適合」と、終わることのない飢餓を分かち合う、二人だけの真実だった。




