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思い出の場所(天城山への逃避)

 凪冴が手配した黒塗りのセダンは、追跡を振り切るように深夜の国道を切り裂き、伊豆の険しい山中へと突き進んだ。

 助手席に座る陽葵の手を握るが、その指先は氷のように冷たい。だが、てのひらを合わせた瞬間に伝わってくる、互いの毛穴が吸い付くようなあの「生命の同期」だけが、僕がまだ死んでいないことを証明していた。


 辿り着いたのは、天城山。かつて両家がまだ友好的だった十年前、合同の夏休みを過ごしたとされる一条組所有の古い別荘だ。

 未だ霧に包まれたままのログハウスへ滑り込み、僕は震える手で暖炉に火を焚べた。


「……ねえ、零くん。私、ここ覚えてる」


 陽葵が虚脱したような声で呟き、床板の隙間に落ちていた一冊の古いノートを拾い上げた。

 それは、経年劣化で茶褐色に変色した日記帳だった。捲るたびに埃が舞い、十年前の青臭い記憶が、残酷なまでの鮮明さで僕の脳内に逆流してくる。


 ――『今日、零くんと約束した。大人になったら、この鍵で私の心の扉を開けてね。結衣より』


 日記の最後には、僕が今も首にかけているペンダントと対になる「銀の鍵」のスケッチが、幼いながらも一筆入魂の筆致で描かれていた。


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 草原を走る白いワンピース。僕の手を引き、はにかみながら「ずっと一緒だよ」と囁いた少女。

 鍵を交わしたのは、瀬那結衣。

 僕がずっと探し求め、運命だと信じていた「正解」は、やはり陽葵ではなく、彼女の姉だった。


「……やっぱり、そうだったんだね。零くんの鍵穴に合うのは、お姉ちゃんの鍵だけだった。私は……お姉ちゃんのふりをして、偽物の幸せを貪ってただけなんだ」


 陽葵の声が震え、大粒の涙が日記帳を濡らす。

 彼女の「適合」は、罪悪感という名の猛毒によって急速に冷却され、その瑞々しい生命力がみるみるうちに萎れていくのが分かった。過去という名の亡霊が、僕たちの現在の共鳴を「間違い」だと指弾している。


 だが、その時だ。

 僕の中で、何かが完全に焼き切れた。


「……それがどうした」


 僕は陽葵の手から日記を奪い取り、それを躊躇なく燃え盛る暖炉の中へ投げ入れた。


「零くん!? 何を――」


「十年前の僕が誰に恋をしていようと、そんなものは死んだ記録だ! 意味なんてない!」


 僕は陽葵の肩を掴み、床に押し倒した。埃が舞い、火の粉が爆ぜる。

 驚愕に目を見開く彼女を、僕は逃がさないように組み伏せた。


「日記に書かれた約束? 誰が持っているか分からない鍵? ……そんな金属の塊やインクの跡で、僕のこの『乾き』が癒やせると本気で思っているのか!?」


 僕は彼女の耳元で、剥き出しの牙を見せる獣のように吠えた。


「結衣との思い出を反芻しても、僕の指先の震えは止まらない! 瑛理香の熱を浴びても、僕の細胞は死にかけたままなんだ! ……僕のこの、一日に何度も訪れる絶望的な飢餓を、呼吸を、生命を維持させてくれるのは、君のこの肉体だけなんだよ、陽葵!」


 僕は彼女の唇を、暴力的なまでの執着を込めて塞いだ。

 陽葵は最初、嗚咽を漏らしながら抵抗したが、僕の心音が彼女の肌に転写され、互いの血流が激しく共鳴を始めた瞬間――彼女の指先が、僕のシャツの背中を引き千切らんばかりに掴んだ。


「……っ、あ、ああ……! 零、くん……っ」


 過去の正解なんて、今の僕たちの前ではゴミクズに等しい。

 どれほど結衣が「正しい鍵」を持っていたとしても、僕という壊れた機械を動かせるエネルギー源は、陽葵、君しかいないんだ。


 日記が炎に包まれ、美しい約束が灰になっていく中で、僕たちは互いの肌を貪り合った。

 一回、二回……いや、足りない。三日間、陽葵を奪われて死にかけていた僕の細胞を蘇生させるには、致死量を超えるほどの「陽葵」が必要だった。


「零くん……地獄だよ、私たち。お姉ちゃんを殺して、自分たちの渇きを満たしてる……」


「地獄でいい。君と溶け合って死ねるなら、そこが僕たちの聖域だ」


 霧の向こうから、追手のヘッドライトが木々を舐めるように近づいてくる。

 だが、今の僕たちは笑っていた。

 過去を焼き捨て、道徳を捨て、ただ「生きたい」という本能だけで繋がった僕たちは、今、この閉ざされた空間で、世界で最も完成された「一」になっていた。

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