凪の叛逆
「……一条様、聞こえますか」
静寂を切り裂いたのは、鉄が擦れるような鋭く、それでいて透明な声だった。
軟禁されて四日。陽葵という「光源」を失い、飢餓感で意識が混濁しかけていた僕の前に、凪冴が立っていた。
彼女は鳳瑛理香の忠実な影であり、僕にとっては、その無機質な肌の質感で一時的な「凪」を与えてくれる機能的な存在だったはずだ。だが、今、月明かりを背負って僕を見下ろす彼女の瞳には、かつてないほどに生々しい「揺らぎ」が宿っている。
「冴……? 瑛理香はどうした。僕を殺しに来たのか?」
枯れた声で問う僕に、冴は何も答えず、僕の腕を掴んで無理やり引き起こした。
指先から伝わる彼女の体温は、以前の「冷却装置」のような冷たさではない。彼女自身もまた、主君の絶望と、僕の崩壊を目の当たりにして、その内なる回路を焼き切ってしまったのだろう。
「お嬢様は……泣き疲れて眠られました。あの方の誇りを、あの方の愛を、貴方は徹底的に踏みにじった」
冴の指が、僕の腕に深く食い込む。痛み。だが、その痛みが、混濁した僕の意識を繋ぎ止める。
「ですが、今の貴方を見ているのは耐え難い。このまま一条の奥の院で、干からびたミイラのように『跡取り』という名の死体になるつもりですか」
冴は僕の首筋に手を回し、その顔を至近距離まで寄せた。
彼女の吐息は、雨上がりのアスファルトのような、どこか切迫した匂いがした。彼女は僕の身体が、陽葵という「特定の共鳴」なしには、もはや維持できないレベルまで臨界点に達していることを、その卓越した観察眼で見抜いていた。
「……私の判断です。鳳家の、一条家の、どちらの意志でもない。私は、貴方をここで死なせるわけにはいかない」
彼女は懐から、一条家の複雑なセキュリティを解除するためのマスターキーを取り出した。
それは、彼女が「ボディーガード」という仮面を捨て、一人の女として、僕という獣を野に放つための叛逆の証だった。
「行きなさい、一条零。貴方の『正解』の元へ。……その代わり、二度と戻ってこないで。あの方の前に、二度と姿を見せないで」
冴は僕を突き放すように背中を押した。
ふらつく足取りで、僕は闇夜へと踏み出す。
背後で、冴が静かに膝をつく気配がした。彼女は自分のキャリアも、居場所も、すべてを投げ打って僕を救ったのだ。
夜風が、僕の飢えた皮膚を撫でる。
遠く、街の灯りの中に、陽葵の鼓動が聞こえる気がした。
待ってろ、陽葵。
もう、誰の目も、どんな宿命も、僕たちを縛ることはできない。
僕は夜の闇を裂くように、彼女のいる場所へと走り出した。




