解析される情動
昨夜の「熱」の残滓が、まだ指先にべったりとこびりついているような気がして、僕は何度も冷水で手を洗った。
一条組の跡取りという、鉄筋とコンクリートで固められた僕のアイデンティティは、鳳瑛理香という劇薬によって、内側からじわじわと溶解し始めている。
彼女を抱きとめた時の、あの暴力的なまでの生命力。それは、僕がこれまで「一条零」として積み上げてきた、静寂という名の城壁を無残に粉砕する、破壊的な律動だった。
「一条様。随分と入念な、そして無意味な『浄化』ですこと」
洗面所の鏡越しに、凪冴が立っていた。
気配も、温度もない。彼女の存在は、常にこのヴィラの風景の中に、切り絵のように鋭利な輪郭で張り付いている。
「……何か用か。鳳なら、まだ寝ているよ」
「お嬢様の入眠状態は、心拍計を通じて既に把握しております。私が今、検分したいのは……貴方の『数値』です」
冴は僕に詰め寄ると、その驚くほど冷たい指先を、僕の喉元を走る頚動脈へと直接押し当てた。
ひんやりとした、情緒を一切排した機能的な感触。それは、オーバーヒートした僕の回路を強制的に停止させる、吸熱材のような質感だった。
「脈拍、上昇。微細な発汗。一条様、貴方は昨夜、この部屋でお嬢様と、契約上の規定を大幅に逸脱する『接触』を行いましたね?」
彼女の言葉は、まるで精密機械がエラーログを出力しているかのように淡々としている。
だが、その指先で生命の証である拍動を物理的に「測定」されるたび、僕は奇妙な安堵感を覚えていた。
瑛理香との接触が、理性を焼き尽くす「嵐」なら、冴との接触は、感情を無効化する「真空」だ。
摩擦も、ノイズも、余計な「意味」も存在しない。ただ、最適化された個体同士が触れ合うことで発生する、静かで効率的な、生存のための補給。
「解析が必要です。貴方は自身の内側に潜む『獣』を飼い慣らせていない。お嬢様の情熱という名のノイズに、貴方の貧弱な共鳴器は耐えられないのです。……ですが、私のような『静寂』であれば、その得体の知れない飢餓を、一時的に鎮めることができるはずです」
冴は僕の目を覗き込む。その瞳には、僕の動揺をあざ笑うような色はなく、ただ純粋な観測の光だけが宿っている。
彼女の指先が、僕の鎖骨のあたりを滑る。その瞬間、僕は理解してしまった。
僕は、自分の本能が、対象の魂など見ていないことを。
僕はただ、生存のために、自分の歪なバイオリズムを調整してくれる「外部端末」を求めているに過ぎない。
「一条様。貴方の身体は、もはや普通の『愛』では満たされない。貴方は、誰かの拍動を流し込まれなければ生きていけない、欠陥品としての充足に依存し始めている」
彼女の指摘は、鋭利な外科用メスとなって僕の胸を抉った。
「……解析は、もう十分だろう」
僕は彼女の手を払い、洗面所を後にする。
鏡の中に残された自分の瞳は、先ほどよりも少しだけ、冷酷な光を取り戻していた。
だが、廊下に出た僕を待っていたのは、すべてを見透かし、僕の裏切りを糾弾するような、鳳瑛理香の燃えるような視線だった。




