消させない思い出
24輪の要塞は、しかしこの時、まだ全貌を現さなかった。地平線に威圧的な影を落としたまま、じりじりと包囲網を狭めてくる。まるで、獲物が弱るのを待つ狩人のように。
「妙だな」モーリスが双眼鏡を覗いて唸った。「あれだけの火力があって、なぜ一気に仕掛けてこねえ」
「追い立ててるんだよ」さぎりが静かに言った。「さぎりを、どこかへ誘導しようとしてるの。むやみに攻撃して、さぎり——生体データベースが壊れるのを、恐れてるから」
だから俺たちは、走り続けるしかなかった。だが、鉱山機械の巨体は速くない。燃料も、じりじり減っていく。
その夜。整備甲板の隅で、俺は工具の手入れをしていた。眠れなかったのは、たぶん昼間のあの放送のせいだ。
「……起きてたの?」
毛布を引きずって、さぎりが現れた。青い髪が、寝ぐせでちょっと跳ねている。熱はだいぶ引いたらしい。だが、その顔はどこか思い詰めていた。
「あなたこそ。整備なんて、こんな夜中に」
「手を動かしてると、余計なこと考えずに済むんだ」
さぎりは、毛布にくるまったまま、俺の隣にちょこんと腰を下ろした。膝を抱えて、ちいさくなって。ディーゼルの低い唸りが、鋼鉄の床を通して伝わってくる。
「ねえ、ぱーちゃん」
「ん?」
「もし本当に、さぎりの記憶が消えたら」彼女は、毛布に顔を半分埋めて言った。「さぎり、ぱーちゃんのこと忘れちゃうのかな。お肉がおいしかったことも、助けてもらったことも、みんなで炭火を囲んだことも……全部消えて。また、無味無臭のカプセルが一番だって本気で思う、つまらない機械に戻っちゃうのかな」
声が震えていた。世界のぜんぶを覚えていられる子が、初めて「忘れること」を恐れていた。
俺はしばらく黙って手を動かし、それから、磨いていたスパナを彼女のちいさな手に握らせた。ずしりと重い、使い込まれた鉄の塊を。
「これ、やるよ」
「え……?」
「俺が親父から受け継いで、10年使ってるやつだ。傷だらけで、握りもすっかり俺の手に馴染んでる。でもな、これを見りゃ、俺はいつでも思い出すんだ。親父の顔。教わったこと。全部な」
「……」
「記憶ってのは、頭の中だけにあるんじゃねえ。この手の中にも、味の中にも、こうやって隣に座ってる時間の中にも、ちゃんと残る。形になって残るんだ」
俺は、彼女の目をまっすぐ見た。
「だから、もしお前が忘れても、俺が覚えてる。お前が肉食って泣いたことも、生意気なことばっか言うことも、ベランダに逆さまに刺さってたことも。全部、俺が覚えてる。そして忘れたら、何度だって教え直してやる。何度でもだ」
さぎりは、スパナをぎゅっと胸に抱いた。
その大きな瞳から、ぽろり、とひとつぶ、涙がこぼれた。今度は、肉の時の勢いのある涙じゃない。もっと静かで、もっと熱い涙だった。
「……ばか」
彼女は、俺の肩にこつんと額を預けた。ちいさな体温が、じんわり伝わってくる。
「そういうこと、真顔で言わないでよぉ……。記憶容量、無駄に食うじゃない。今の、絶対一生忘れられないやつだよ……。脳の、いちばんいい場所に、保存されちゃった……」
「悪かったな、容量食わせて」
「……ううん」
彼女の声は、涙で濡れて、けれど、ほどけるみたいに柔らかかった。
「……いいの。この記憶なら、もし消えても。だって、何度でも、ぱーちゃんに教え直してもらえるんでしょ?」
「ああ。約束する」
「約束、記憶したっ。ちゃんと守ってよねっ。破ったら承知しないんだからっ」
荒野を渡る夜風が、鉄の甲板を撫でていく。星が、やけに綺麗な夜だった。EMPで街の灯りが消えたおかげで、皮肉にも、空は星屑で埋め尽くされていた。
その静かな夜が、嵐の前の最後の凪だった。
夜明けとともに、けたたましい警報が、その凪を無残に引き裂いた。
「総員、戦闘配置ォ!」モーリスの怒鳴り声。「要塞が動き出しやがった! こっちを袋小路に追い込む気だ!」




